結婚狂想曲



     5


 いつもよりは少し日が開いて、再び高耶は情報センターを訪れていた。
 受付で名前を言うと、いつものように個室に通される。やがて女性のスタッフが飲み物を運んできてくれる。
「すみません。直江ですが前のお客様とのお話が長引いているようで、少しお待ちいただくことになりそうです。申し訳ありません」
「あ、いえ。大丈夫です」
 高耶は少しほっとした。正直、顔を合わせづらい。あれ以来、メールで何度かやり取りはしているのだが・・・
 手持無沙汰で、置いてある雑誌などを読むともなしに、ぱらりとめくっていると、そう待たずして直江が現れた。
「こんにちは。高耶さん。お待たせしてしまってすみませんでした。少し、お久しぶりですね」
「あ、ああ。うん。久しぶり」
 直江がいつものように笑ってくれて、高耶は知らずのうちに強ばっていた肩の力を抜いてほっとした。
 最初にこの間のことをなんと言ったらいいものかと、ずっと考えていたけれど、結局うまい言葉はいまだ見つかっていない。
「あの、さ。この間は、悪かったな」
「いえ、こちらこそ。あなたを不快にさせてしまって申し訳ありませんでした。今日、来てくださって嬉しいです」
「……うん」
「では、またご案内をさせていただきますね。今度、例のお料理教室のイベントがあるんですが、どうでしょう。日程が合えばぜひにと思っているんですが」
「あ、そうだな」
 高耶は生返事をしてしまう。
 直江がもう怒っていなくて安心して、それで気持はふっきれたはずなのに、どこか頭の中がもやもやとしていて集中できない。
 実は今日も仕事で上司から「集中できていない」と叱られたばかりだ。ちょっとしたぼんやりが大きな事故を引き起こしてしまうのが高耶の仕事だ。
 今までこんなことがなかったのに、どうしたのだろう。しっかりしないといけないのに、そんな自分が不甲斐なくてならない。
「高耶さん?」
 気づくと直江に顔をのぞきこまれていて、さすがに驚いて「わ!」と声を上げてしまった。
「疲れてますか? 今日はやめておきますか?」
「あ、いや。そんなことない。ごめん。ちゃんと聞く。お願いします」
「そうですか?」
 直江はまだ少し疑ったようにこちらを見ていたが、高耶は知らぬふりをして差し出されていた説明の紙を手に取り、文字を目で追い始めた。
 目的を持ってここにきているのだ。ちゃんとしなくては。
 そのとき、高耶のお尻のポケットに入れたマナーモードに設定の携帯電話が、ブーッブーッと震えた。交友関係もそう広くない高耶の携帯電話に、電話してくる人はそう多くない。かかってくるときはだいたい仕事がらみだ。
 高耶は直江に断りを入れて携帯電話を取り出す。液晶画面を見ると、予想に反して美弥を預けている保育園からだった。
 何かあったのだろうか。
 どきりとして高耶は電話に出る。
「はい。仰木です。はい。お世話になってます」
 直江は高耶の電話を横で聞いているのも何かと思って、中座しようとして、腰を浮かせかけたが、高耶の
「え?」
という声に思いとどまった。
「高耶さん?」
 電話を持つ高耶の手が小刻みに震え、みるみるうちに顔色を失っていく。
「はい。はい。わかりました。すぐに行きます」
 会話が終わった携帯電話を、高耶は茫然と見つめてそのまま動かない。
「高耶さん、どうしたんですか」
「美弥が……」
「美弥さんがどうしたんですか」
「保育園の遊具から落ちて、救急車で運ばれたって……」
「なんですって!」
 電話を握りしめる高耶の手が、小刻みに震え、表情が強ばっている。
「どうしよう、オレ。どうしたら……」
「しっかりしてください。とにかく病院へ行きましょう。どこの病院ですか」
「な、中川総合病院」
「それならここからそんなに遠くない。車を回してきます。あなたはここのビルの入り口で待っていてください」
 直江はすぐに部屋を飛び出し、車のキーを取りに行こうとして、高耶がとっさに伸ばした手に阻まれる。振り返ると、高耶が首を横に振る。
「直江、いい」
「いいって何がですか」
「そんな迷惑かけられない。大丈夫だ。オレ、タクシー呼んでひとりで行くから」
「何を馬鹿なことを。そんな青ざめた顔をして平気なはずがないでしょう。いいですか。待っていてください。いいですね」
 直江の強い口調に、高耶はやがて小さくこくりとうなずいた。



「美弥!」
「おにいちゃん」
 直江の車で病院に駆け付けた高耶は、受付で美弥のいる病室を聞き出し、言われた部屋に飛び込んだ。
 病院に着くまでの車の中で、悪い想像ばかりしていた高耶は、ベッドに座ってきょとんとこちらを見ているいつもと変わりのない美弥の姿に、思わずそのまま床にへたりこみそうになった。
「美弥! 起きてて大丈夫なのか」
「うん。ちょっとごんってしただけ」
 けらけらっと笑う美弥は、本当にいつもどおりだ。
 慌てて駆け寄ってみるが、特に目立った外傷もない。
「美弥ちゃんのお兄さんですか?」
「そうです」
 ベッドの傍にいた年配の白衣の男性が、高耶に向ってにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。遊具から落ちた高さもさほどではなかったのと、うまく足からまっすぐ落ちて、怪我はありませんでした。かすり傷も特にないですね。念のため先ほど頭の方も検査しましたが、今の時点で特に吐き気も何もないようですし、問題ないでしょう」
 その言葉にようやくほーっと体の力が抜ける。
 さっきまで滞っていた血の流れが一気にめぐり始めたような、そんな感覚だった。指先がまだ少し緊張の名残で冷えて硬くなったままだ。
「本当ですか。よかった……」
 高耶がぎゅーっと美弥を抱きしめると、同じくベッドのそばにいた若い女性が高耶に向って頭を下げた。美弥の担任の先生だ。
「仰木さん、本当に申し訳ありませんでした」
 目を真っ赤に腫らしていた。彼女も相当心配したのだろう。
「そんな、いいですから。何ともなかったんですし」
 本当に良かった。
 無事だった。
 この小さくて温かい愛しい存在を失ってしまったら、と、その先は想像できないほど怖かった。
「おにいちゃん。ごめんね」
「いい。無事だったから」
「うん」
 そのとき、カラカラと戸が開いて、振り返ると直江が入ってくるところだった。
 あ、と高耶は思い出した。
 直江は病院に着いたとき、車を泊めてくるからと高耶を先に病院の玄関口におろしてくれて、実はもう、そのあとから美弥のことばかりで、直江の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 車を泊めて、それから受付で美弥の病室の場所を聞いて来てくれたのだろう。
 ここまで連れて来てくれた彼のことをようやく思い出し、高耶は赤面した。
「わ、悪い! オレ、完全にほったらかしで来ちまった」
「いいんですよ、そんなこと。当たり前です。それより、美弥さん、無事だったんですね。良かった」
「なおえさんだ」
「はい。美弥さん、本当に良かった。お兄さん、すごく心配してたんですよ」
「うん。ごめんなさい。でもだいじょうぶ」
 美弥のニコニコと微笑むのを、直江は大きな手で頭をなでた。
 高耶を見ると、まだ顔が青白いが、さっきよりはだいぶマシになってきている。
「念のため、今夜一晩だけ泊っていってください。お兄さんは、付き添いされますか?」
 医者の言葉に高耶はうなずく。
「おにいちゃん、ここで美弥といっしょに寝るの?」
「うん。一緒だ」
「やった! おとまりだね。なおえさんもいっしょ?」
 直江は微笑んだ。
「せっかくですが、今日は美弥さんとお兄さんとふたりで。明日、お迎えに来ますから」
「ほんとう?」
 それを聞いて慌てたのは高耶だ。
「いや、迎えとかいいって。本当に悪いし」
「大丈夫ですよ。仕事に行く前にそれくらいなんてことはありません」
「いや、でも……」
 言いよどむ高耶に看護師が声をかける。
「仰木さん、入院の手続きを。ご案内します」
「はい。行きます」
「大丈夫ですか? 何か手伝える事があれば……」
「こんくらい大丈夫だって。直江は美弥のとこにいてくれるか」
「わかりました」
 直江の優しい笑顔にほっと体の力が抜けて、高耶は手続きをしに病室を出た。
 夜間担当の看護師にいろいろ教えてもらいながら、必要な手続きを済ませて戻ってくると、病室はもう静かだった。
「美弥、寝たのか?」
「はい。先ほど」
 部屋には先ほど病院のスタッフが持ってきた簡易ベッドが用意されていた。
 ベッドに歩み寄り、ぐっすりと寝入っている妹の姿に、改めてホッとする。起さないようにそっと小さなおでこにかかった柔らかい髪の毛をよけてやる。
「それでは、私はこれで」
「直江」
「はい」
「……ありがとな。一緒に来てくれて。オレひとりじゃ、どうしようもなかったと思う」
「いえ。とにかく美弥さんが無事で良かった」
 直江の声は慈愛に満ちていて、高耶はふと涙が出そうになった。ほんの数時間までわだかまっていた空気が今は嘘のようで、あの緊張した間が自分なりに堪えていたのだとわかる。
 直江との時間が優しくて、心地よくて。なくなるのはいやだ。
 いつのまにか、そんな願いが自分の中には生まれていたらしい。
 美弥以外の誰かに対して、繋がりを失いたくないと思うことなど、ここ何年もなかったのに。
「お休みなさい。高耶さん」
「お休み」
 優しい気持ちで、そう言い合える存在が、美弥以外にもできたことに、高耶は少しくすぐったい気持になった。



(危なかった)
 直江は病室を出たとたん、中にいる高耶に聞こえないよう、静かにゆっくり息を吐き出した。
 青ざめて今にも倒れてしまいそうだった高耶が、美弥が無事だとわかって、ほっと無防備になり自分に微笑みかけてくれたあの瞬間。
(思わず、抱きしめてしまいそうだった)
 庇護欲だけではない。
 愛おしくて、この腕の中に閉じ込めてしまいたくなって……。
 この間の高耶とのいさかいは、明らかに自分らしくなくて、あれからいろいろと考えてみたのだ。
 なぜ、あんなに自分のことを考えていない、というか大事にしていない彼に、苛立ってしまったのか。
 なぜ、彼の表情がいちいち気になって、彼の一挙手一投足にこちらの感情も左右されるのか。
 いくら十一歳も年下とはいえ、彼はれっきとした男で、構いたくなるのも気になるのも、弟のように思っているからではないか、と思ってみたのだが。
 この間から、まさかまさかと思ってきたが、さっきのことではっきりした。

 ――自分はこの人に完全に堕ちている。



「結婚狂想曲」より抜粋