結婚狂想曲



     2


 少し終業時間が押したため、高耶は最近ちょっと空気が抜け気味の自転車に急いでまたがり、いつもの場所に向かう。
 十分ほどペダルをこいで、たどり着いたそこは保育園だ。まだ何人かの子どもの声が外まで聞こえている。自分がお迎えの最後ではなかったことにほっとして、高耶は自転車を降りた。
 小さな門をくぐり、下駄箱のところで中に呼びかける。
「美弥ー!」
 少し間をおいて、奥からパタパタとピンクのスモックを着た女の子が走り出てきた。
「おにいちゃん、おかえり!」
 腕の中に飛び込んでくる小さくて温かい体を受け止め、ひょいっと抱き上げる。
「ごめんな。遅くなった。待ってたか?」
「ううん。へいきー。おえかきしてたの」
「そっか」
 高耶は、美弥の黄色い鞄を持って出てきた保育士の女性に頭を下げた。
「すみません。遅くなりました」
「いいえ。大丈夫ですよ。美弥ちゃんもいい子に待ってたのよね」
「うん。みや、いいこだった」
「おし。よくやった。じゃあ帰るか。美弥、ほら先生に鞄ありがとうって」
 美弥は高耶の腕の中から降りると、とことこと彼女のもとへ歩み寄り、小さい手をのばして自分の鞄を受け取った。そして、「ばいばい」と手を振って高耶のところへ戻ってくる。
 高耶はもう一度美弥を抱き上げて、そのまま門を出て、自転車のハンドルにつけたイスに座らせる。
「よし。美弥、帰るぞ」
「れっつごー」
 ぐんっと自転車をこぎだすと、美弥はきゃっきゃっと楽しそうに笑う。
「美弥、今日、何食べたい?」
「みやねー、おむらいす」
「オムライスか。よしじゃあ、あとスープな」
 冷蔵庫の中身を思い返しながら自転車を走らせる高耶を、美弥が首を精一杯まわしてこちらを見てきた。
「おにいちゃん、みや、みどりのおまめいらないよ」
「ん? グリーンピースのことか? 好き嫌いはだめだぞ、美弥」
 オムライスを作るのに使うベジタブルミックスの中に入っているグリーンピースが、美弥はあまり好きではないらしい。眉根を寄せて「ダメ」という顔をしてみせると、美弥はブーッと頬を膨らませる。
 そんな他愛もないやり取りをすることが、高耶にとっては一日の中で一番楽しい時間だ。



 美弥は高耶のずいぶん年の離れた妹だ。
 彼女には、また、彼女と両親を同じくする自分にも、父母がいない。父親はずいぶん前に蒸発してしまったし、母親は美弥がまだ赤ん坊のときに亡くなった。
 だから、そのときから高耶は美弥の父親代わりだ。親類や近所の人たちは気にかけてくれたが、美弥と一緒に暮らしていたかったし、他人の手を借りるのは嫌だった。両親がいなくなったとき、自分はもう高校生だったから、バイトをしながらなんとかやってこれた。
 でも、自分は男だから母親にはなってあげられない。
 まだこの年頃だ。当たり前のように母親が迎えにくるほかの子どもたちを、羨ましいと思わないはずがない。
 父親も母親もいる家庭、というのを美弥にも味あわせてあげたいとずっと思ってきた。
「きょうねー、せんせいがおはなしよんでくれたの。きつねさんとうさぎさんがでてくるの」
「へー。そうか。よかったな。帰ったら兄ちゃんも聞きたいな」
「わかったー。みやがおはなししてあげる」
 いつもいつも思うこと。美弥の笑顔のためだったら、何でもしてあげたい。
 高耶は美弥とふたりで住む団地の部屋にむかって、自転車をこぎ続けた。



 高耶は駅から歩いてすぐのビルの三階にある、今日で二回目となるその場所へ向かう。
 白を基調にして生花がさりげなく飾られた空間は、ディニムパンツにスニーカーの自分には少し居心地が悪いが、それをなるべく気にしないようにして受付のカウンターに向かう。
 自分より少し年上かと思われる受付の女性に、自分の名前をつげるとすぐに個室に案内された。
 腰を落ち着けるとこれまたすぐにドアをノックされ、別の女性スタッフがお茶を持ってきてくれ、それにぺこりとお辞儀をした。
 落ちつかない。  手持無沙汰で出されたお茶に口をつけていると、二度目のノックで、今度こそ待っていた人物が現れた。
 ダークスーツをキリッと着こなしていて、スーツの胸ポケットに光る金色のネームプレートがすごく雰囲気に合っている。最初、彼を見たときは俳優か、エリート商社マン、もしくは高級ホテルのスタッフだと思ったぐらいだ(あくまで高耶の中のイメージ像だが)。
 男は高耶の姿を見ると、薄いメタルフレームの奥の瞳を細めて、優しい笑顔を見せた。
「こんにちは。仰木さん」
「こんにちは」
 自分の周りにはこんなにゆったりと理知的な表情で笑いかけるようなタイプの人間はいないので、つい、どぎまぎしてしまう。
「あの今日は申し込みに。言われた書類とか持ってきたので」
 気のきいた世間話をすることなどできるわけもなく、高耶は早速バックを開けて持ってきた書類を取り出し、直江にまとめて手渡した。
「ありがとうございます。では確認させていただきますね」
 直江が書類を丁寧にめくって確認しているのを、高耶はほかにすることもなくてじっと見つめる。
 なんとなく見ていると、直江の眼鏡越しに見える、やや伏せられた眼のふちを彩るまつ毛の色素が少し薄いのに気づく。そういえば、瞳の色も一般的な日本人の目の色より明るかった気がする。
 身長も高いし、顔の彫りもやや深めだ。かといって、顔がきつく見えないのはその眼の色といつも浮かべている穏やかな表情のせいかもしれない。
(本当にモデルとか俳優出身だったりするのかもな)
 少なくとも、高耶がこれまで生で見た人間の男性の中では、限りなく最高ランクの部類だと思う。
 自分より大きい手が、紙をめくっているのを飽きずに見ていると、ふとその左手の薬指に銀色に光る細い指輪がはまっているのに気づいた。
(あ、結婚、してるんだ……)
 そう思った瞬間、なぜか心の底がすとん、と抜け落ちたような感覚がした。彼が結婚しているという事実に軽くショックを受けている自分に、高耶は少し戸惑いを覚えた。
(まあ、これだけの色男だし、そうだよな。逆に結婚していなかったら不思議なくらいだ)
 つらつらと自分の物思いに入り込んでいると、直江がふと顔をあげた。書類をきれいにまとめて、それをクリアケースの中に納める。そうした動作ひとつとっても、大人の余裕と品を感じて、すごいなと感心してしまう。
「大丈夫です。問題ありません。それではこちらでご入会ということで。改めまして、これからどうぞよろしくお願いいたします」
 直江の言葉に、書類に問題がなかったことにほっとして、高耶も「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「それでは、早速ですが仰木さんのご希望される女性像とか、今後の予定などをお伺いしていきますね」
 高耶の理想とする相手の年齢や、性格、その他もろもろを直江は聞きとっていった。
 高耶の出した希望は、子どもが好きで家庭を大事にしてくれる人、というものだった。美弥と一緒に仲のよい家族になってくれる人がいい。美弥の喜ぶ顔を想像して、高耶のほおが自然とほころんだ。
「ちなみに仰木さんは、どうして結婚されたいと思ったんですか? ああ、すみません。いえ、まだお若いですし」
 直江は、まだ会って間もない相手に聞きすぎかとも思ったが、なぜ結婚したいと思ったか、という動機は相手を探すうえでもかなり大事な事項だと言った。
「……早く家庭が欲しいんです」
 少し考えた様子の高耶の口から出たのは、そんな言葉だった。
「家庭……」
「オレ、小さい妹がいるんです。父親は蒸発していなくなって、母親もあいつが生まれて間もなく死にました。妹は家族を知らないんです。だからオレは普通の家族ってやつをあいつにやりたいって思ってて」
「そうですか、妹さんが」
「でも、オレは女とかよくわからなくて、彼女とかいたこともないし。今も仕事と家の往復でそんな出会いとかないし」
「それでこちらに?」
「……はい。あの、やっぱり子どもいるとなると条件厳しくなりますか?」
「そうでうね。少しはあるかもしれません。でも、条件に合う方が多くいればいいということではありません。これからずっと過ごしていきたいと思えるたった一人の方を見つけられるかどうかですから。それを私たちがお手伝いいたします。一緒にがんばっていきましょう」
 直江の言葉に、高耶は少しだけ笑顔を見せた。



 高耶のその笑顔に直江は、はっとした。いつもどちらかというと愛想がない彼の、少しはにかんだような、飾り気のない素直な笑顔に不意をつかれたのだろうか。
   そうだ。そうに違いない。
 直江は気を取り直すように、資料を取り出して高耶に説明を始めた。
「皆さんの出会いのきっかけになるイベントもいろいろなものがありまして、一対一でのいわゆるお見合いのようなものから、複数人数でのお食事会だったり、最近では料理教室やゴルフなども人気ですね」
 直江は高耶に、出会いをサポートするいろいろなプログラムについて、過去のレポートなどを交えながら話す。
「料理教室?」
「ええ。男性と女性でそれぞれ数名ずつ集まっていただいて、お料理の先生について一緒に作るんです。そのあと、自分たちで作ったものを食べながら交流していただく、といった感じですね」
「そんなのもあるんだ」
 お見合いや食事会のようなものしかイメージになかった高耶には、新鮮な驚きだ。
「ええ。いきなり『どうぞ。話をしてください』と言ってもなかなかできるものじゃないですから、料理をしながら自然と話ができる、というのが人気の理由ですね。仰木さんはお料理はいかがです?」
「普通の家庭料理なら。綺麗なものとか豪華なものは無理だけど」
「そうですか。料理ができる男性はポイントが高いですし、仰木さんが楽しく参加できそうなものを選んでくださいね。もちろんこういったパーティーなどでも、お話のきっかけになるような催しをいろいろ用意していますから、安心してください」
 直江の笑顔に、高耶はこくりとうなずいた。



 ふーっと、高耶は大きな鏡の前で大きく息を吐き出した。
 着なれないジャケットを着込んで、肩が凝ってしまった。
 今日は、通っている結婚情報サービスの会社が主催するイベントに来ている。ホテルのホールを借り切って立食で話をする、というスタイルのもので、集まった男女がそれぞれ声を掛け合っている。
 会場の中には数十人の参加者が集まっていて、お互いにうまく話が合ったようで、楽しそうに会話しているところもいくつかある。
 自分の求める条件に合った人ばかりが集まるのではないのだが、いろいろなタイプの人に出会えて、思わぬ発見があったりするものですよ、という直江のアドバイスの元、こうして参加してみたわけだ。
 とはいえ高耶は、せっかく来たものの、普段女性と話す機会もないせいか自分から声を掛けるのも難しく、向こうから話しかけてきてくれても、うまく会話の糸口がつかめずに話がしぼんでしまったり。直江がところどころでサポートしてくれたが、結局これといった人には巡り合えなかった。
 とりあえず今は一呼吸おきに、トイレに来ている、というわけだ。
 ホテルの磨きこまれた手洗い場の鏡に映った自分の顔を見て、思わず苦笑する。笑顔のまま、筋肉が固まったような感じで、ずいぶん変な顔をしている。
 頬を撫でて顔の筋肉をほぐしていると、後ろからひょっと人影が現れた。
「仰木さん、大丈夫ですか?」
 直江だった。
「疲れましたか?」
「少し。でも平気」
 高耶は鏡越しに直江に笑ってみせる。
「直江さん、サポートしてくれたのに、うまくできなくてごめんな」
「いえいえ。最初は皆さんこんな感じですよ。普通、仕事でもなければ初めて会う人にこんなに声掛けることなんてないわけですし。少しずつ慣れて、お話しできるようになればいいんですから」
 直江の言葉に、高耶はほっとする。
 彼の言葉はいつも自分を勇気づけてくれる。
「仰木さん、私に対してはもっと楽にしてください。私と仰木さんがかしこまっては、ざっくばらんな話もできないですし」
 高耶の横に並びながら、直江がそんなことを言い出した。
「っていても、どうやって? ……呼び捨てとか? 『直江』って?」
「『直江』でいいですよ。私も『高耶さん』と呼ばせていただきますし」
「ん? それって不公平じゃねえか?」
「そうですか? お互いひとつずつ歩み寄っていいんじゃないかと思ったんですが。まあ、好きに呼んでください」
 ひとつずつ歩み寄る、という言葉の意味がよくわからくて高耶は、はてなマークをしばらく飛ばしていたが、
(ま、いっか。本人がいいって言ってんだし)
と、今度から「直江」と呼ぶことにした。
「どうしましょう。戻りますか?」
「うん。そうだな。もう少し頑張ってみる」
「あまり力みすぎないように。今日は初めてですから、雰囲気つかむだけで十分ですから」
「わかった」
 その後、一度力を抜いてリラックスできたせいか、最初よりは幾分、あくまで幾分、といった程度だったが、自分なりのペースで話が少しだけ出来るようになっていた。


「結婚狂想曲」より抜粋