結婚狂想曲



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 鏡の前に立って髪を軽くなでつけたあとに、わずかに度が入っているメタルフレームの眼鏡をかける。眼鏡はなくても、日常生活にはたいして支障はないのだが、自分の中ではこの眼鏡が頭の中を仕事モードに切り替えるスイッチになっている。
 ダークカラーのスーツに合わせた派手になり過ぎないブルー系のネクタイのノッドの形と、髪型を今一度鏡で確認し、最後にロッカーの上の棚に置いている控えめに光る金色のネームプレートを手に取り、胸ポケットに挟み込んだ。
 一分の乱れもない。
 愛用している万年筆の老舗ブランドのボールペンを胸に差し、今日一日のスケジュールや諸々の資料が挟み込まれているファイルを手にし、更衣室を出る。
「おはようございます」
 すれ違うスタッフとあいさつを交わしつつ、ワークスペースへと足を踏み入れた。
「あら、おはよう直江。今日も渋いわねー」
 同僚の門脇綾子から声を掛けられ、こちらも短いあいさつを返す。
 昨年から三十路に足を踏み入れた直江よりは綾子はいくらか年下で、ゆったりとしたウェーブの長い髪を仕事の間は潔くひとつに束ねている。はっきりとした目鼻立ちに、スラリとしたプロポーション。黙っていればかなりの美人の部類に入るだろう。
 そう。あくまで「黙っていれば」、だ。
 自分の机についてパソコンの電源のスイッチを入れ、画面が立ちあがるのを待っている間に、社内の別の女性スタッフが、煎れたてのお茶を運んできてくれた。
「おはようございます。はい。お茶です」
「ありがとうございます」
 笑顔で受け取ると、彼女は少し頬を赤らめた。
「あ、そうだ。直江さん。この間、私が担当している女性の方が、直江さんを紹介してほしいっておっしゃっていましたよ?」  彼女はふと思い出したようにそう言った。
 直江はそれを聞いて、まだ熱いお茶を少しだけ口に含みながら、苦い顔になる。
「またー?」
 傍にいた綾子がため息交じりに非難の目を直江に向けてくる。
「あんたさあ、こんな仕事していながら、人の結婚への道、邪魔してんじゃないわよ?」
「私のせいではないだろう」
 そう。自分のせいではない。彼女の担当している女性とやらも、あいにくまったく記憶にない。廊下などですれ違った際にあいさつした程度ならありそうだが……。
「それでその方にはなんと?」
「はい。直江さんは既に結婚していらっしゃいますよ、ってお伝えしておきました」
「そうか。ありがとう」
 彼女が立ち去ると、パソコンのメーラーを起動させメールチェックをする。ざっと受信箱を確認したあと、迷惑メールのフォルダに必要なメールが誤って分類されていないか、こちらも確認していく。
 ふと、視線に気づいてそちらを見ると綾子がこちらをまだ胡乱な眼で見ていた。
「……なんだ」
「あたしのお客さんもこの間、あんたのこと知りたいって言ってきたのよね。みんな、顔さえ良ければいいのかしら」
「同じセリフをおまえにそのまま返してやるぞ」
「どういう意味よ」
 綾子がむっと眉根を寄せたところで、コツコツとヒールの音をさせて、二人に近づいてきた女性がいた。
「なになに? 何かあったの?」
「あ、おはようございます。冴子社長。またお客さんで直江に気が向いちゃった人がいたんだそうですよ」
 綾子の言葉に、冴子は「まあまあ」と直江の方を見やる。
「あら、また? 義明、あなたもわが弟ながら罪づくりだこと」
 きれいに髪をまとめ上げ、派手さはないがきりっと化粧をした、いかにもやり手の女社長といった風情の彼女は、直江の実姉だ。困ったわね、といいながらその実、目の奥でおもしろそうに笑っている。
「姉さん」
 冗談ではなく、本当に困っているのだが……。
 そんな直江の心の内を知ってか知らずか、冴子は直江の肩をぽんぽんと叩いて、オフィスをぐるりと見渡した。
「さああさあ、皆、揃ったかしら。それではミーティングを始めます」
 冴子の声に出勤して出揃ったスタッフが各々のスケジュール帳を片手に立ち上がり、冴子を中心に輪をつくる。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします。では、早速先日のイベントの報告から。門脇さん、お願い」
「はい。先日のクッキングイベントについてですが、参加された方は男性女性ともに十名ずつで、今回も六本木のスタジオをお借りして……」
 綾子の報告を耳にしながら、直江は今日のスケジュールやここしばらく抱えている企画について、頭を巡らせていった。



 直江の仕事は、結婚を希望する男女の出会いをサポートする、つまりは結婚情報サービスのアドバイザー、というものだ。数年前までは兄が経営する不動産会社で働いていたのだが、実姉の冴子が今直江が勤めている支店を新規に立ち上げることになったときにこの世界に入った。
 最初は支店がある程度安定するまでの「手伝い」のつもりだったが、仕事を続けていくうちに、この仕事なりの面白さややりがいといったものも少しずつ見え始めて、結局いまだここにいる、という状況だ。
 朝のミーティングが終わると、直江はまずメール対応に取り掛かった
 最近、特に増えたメールでの問い合わせに、ひとつひとつ目を通し返信をしていく。結婚を望む本人からの問い合わせはもちろんだが、当人の親からのものも多い。
 晩婚化、未婚化の時代になっていると言われているが、こういう仕事をしていろいろな相談を受けていると、確かにそうなのだろうと思う。「結婚したくない」というタイプの人がいることも間違いはないが、同時に世情が「結婚できない」「しづらい」とういう状況だというのも間違いではない。
「直江、十一時からの新規のお客さん、いらしたわよ」
 綾子の声にキーボードを叩く手を止めて時計を見ると、まだアポイトメントの時間まであと十五分はゆうにある。
「早いな」
 直江は急いで昨日のうちに用意しておいた資料を手に取る。
 ふと綾子が傍に立つので、何か用かと見やれば、よくわからないがウキウキした雰囲気が伝わってくる。
「どうした」
「さっき、お茶出してきたんだけど、ちょっと珍しいタイプのお客さんよ」
 そう言って意味ありげに笑って綾子はさっさと背中を見せて去っていった。
「何だ?」
 直江は綾子の背中を見送りつつ、首を傾げる。こういう仕事をそれなりに続けていれば、いろいろな人間に会う。年齢もさまざまだし、性格も然り。
 これから会うのは、今日初めて会う新規のクライアントだ。事前の申し込み資料のデータを反芻しながら、綾子の反応にひっかかる部分を思い浮かべてみる。
 おそらく年齢の部分ではないか、と思う。申込書には「二十歳」、とあった。ここの相談所に訪れる人の平均的な年齢を考えればずば抜けて若い。
 が、しかし、綾子がそれだけであんなことをいうだろうか。綾子もスタッフの中では若い方だが仕事はできるし、肝っ玉もしっかり据わっていて、多少のことでは動じない。
 直江はいまいひとつ釈然としないままクライアントが待つ個室の部屋の前に立つ。ノックをする前に一呼吸して頭を切り替える。
 最初の印象が大事なのは、恋愛でも仕事でも同じことだ。
 コンコンコン。
 丁寧なノックをし、「失礼します」と声をかけてから、直江はドアを開けた。
 ぱっと相手の姿が目に入ってくる。
 その瞬間、直江は自分の思考が一瞬飛んだのを自覚した。
 目の前に座っていたのは、体つきも風情もどこかまだ少年っぽさの残る青年だった。直江が入ってくると、わずかにうつむいていた顔をパッとあげる。
 その瞬間、おそらくこれまでに一度も染めたことがないだろう黒い髪の間から、これまた黒く光る瞳がまっすぐこちらを射ぬいてきて、直江は思わず息を呑んだ。
 自慢ではないが、仕事でもプライベートでも、感情をコントロールして、ポーカーフェイスの下に隠すことは不得手ではないと思っているし、どんな状況でも冷静に対応できるタイプだという自覚がある。そんな自分が少しとはいえ動揺させられた。
 もちろん、プロだ。そんな様子などおくびにも出さないが。
 すぐに気を取り直し、
「お待たせいたしました」
 直江がゆったりと微笑みかけると、青年は慌てたように頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします」
 緊張しているらしい。肩や手に力が入っている。誰しもこういった場所に初めてくるときは緊張するものだが、彼は中でも特にその度合いが激しいようだ。
 直江はスーツの内ポケットからカードケースを取り出し、そこから一枚自分の名刺を取り出して相手に差しだす。
「初めまして。わたくし、仰木さんの担当をさせていただく直江と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 青年が名刺を受取ると、直江は椅子を引いて「失礼します」と断って、彼の対面に腰を下ろした。
 改めて目の前の青年を眺め、頭の中にデータをインプットしていく。
 身長は百八十センチに欠けるぐらい。やや痩せ形で服装はTシャツの上にパーカーでディニムのパンツ。
 出で立ちはその辺の街の若者と大して変わりはないはずなのに、何か特別な印象を受けるのは整った顔の中心にある瞳がとても印象的なせいだろうか。
(なるほど。あまりいないタイプだな)
 直江は綾子の言葉に妙に納得した。
「仰木さん、この度は、ご連絡いただきましてありがとうございます。本日は弊社でご提供するサービスのご説明と、仰木さんのお話をいろいろお伺いできればと思います。よろしいでしょうか」
「はい」
 肩に力が入ったままだ。直江は少し微笑ましくなった。
「どうぞリラックスしてください。難しいお話をするわけじゃありませんから」
 直江がそう言って微笑むと、仰木青年はおずおずと口を開く。
「あの……。こういうところ来るの、オレ、初めてなんですけど、オレみたいなのじゃダメですか」
「仰木さんは今おいくつでいらっしゃいますか?」
「年はこの間二十歳になりました」
「年齢は大丈夫ですね。わたくしどものサービスでは女性の方は十八歳から、男性の方は二十歳からご利用いただけるようになっております。ほかにもいくつか入会の条件がございまして、このままお伺いしてもよろしいでしょうか。あ、お飲み物も飲みながらで、どうぞ」
「あ、はい」
「男性の方は定期収入があることが条件となります。失礼ですが、お仕事は何を」
「建設関係です」
「雇用形態は……、正社員とか契約といったことですが」
「一応正社員です。十八のときから」
 直江は、聞き取ったそれらの情報を定型のシートにひとつずつ丁寧に書き込んでいく。
「そうですか。それでは、もうひとつ伺わせてください
 それを聞いて、直江はにこりと笑みを浮かべた。。仰木さんは独身ですよね?」
「はい」
 目の前の彼が、直江の問いに首を傾げた。  結婚したくてここにくるのだから、独身なのは当たり前なのでは……といったところか。彼の心中が察せられて、直江は微笑んだ。
「正式にご入会いただく際には、独身証明書というものが必要になります」
「独身……しょうめいしょ?」
 聞きなれない言葉にまたもや首を傾げる彼に、直江は証明書の見本を見せながら丁寧に説明をする。
「はい。独身証明書とは、その名のとおり貴方が独身であるという証明書です。本籍地である市町村が発行するもので、民法七三二条にもとづいて、現時点で婚姻の事実がないことを証明するものです。こちらをお持ちいただく必要があります」
「へえ、そんなのがあるんですね。わかりました。持ってきます」
「本籍地はおわかりになりますか?」
「免許証があるので、大丈夫です」
 直江は、リーフレットなどを使いながら、入会手続きに必要なものや、この会社で提供しているサービスのプランについてなど、ひとつひとつ説明をしていく。
 向かいに座る青年は、聞き逃すまいと真剣に聞き入っていて、直江の話に合わせてうなずき、時折、目にかかる前髪に手をやった。
 よどみのない説明をしながら、直江は別のことを考えていた。
 健康そうに少し日に焼けた肌に、艶のある黒髪、その間から覗く瞳はまっすぐこちらを見ていて、少しでも後ろめたいことがある人間ならこの目には耐えられないだろう。それくらい強い目だ。
 顔立ちはいい方だし、ときどき若者らしい不完全な丁寧語の間に、ぶっきらぼうな言葉遣いが混じるが、とはいえそれで人に敬遠されるというほどでもない。むしろ、それが逆に魅力にもなるだろう。
 そもそも彼の年齢でこういった場所へ相談にくるケースも少ないが、彼ならば女性にもてないということもなさそうに思えるのだが……。
 ただ人によっては、社内結婚は避けたいだとか、いろいろな事情があるので、職場でもなんでも異性と出会う場があればいいというものでもない。もてようがなんだろうが結婚につながる出会いがない、といってここを訪れる人も少なくない。
 直江は、ふと自分が仕事以外の私的な興味でそう考えていることに気づいて、心の中で苦笑いした。
 自分は自他ともに認める人間関係に関してはドライな性格だ。こういう仕事はしているが、仕事に必要なこと以外の事項を尋ねることはないし、だいたいプライベートな話も仕事だから聞いているのであって、個人的な感情がそこに入りこむことはない。
 そんな自分が目の前の青年には、いつになく興味を抱いているらしい。
(まあ、珍しいタイプだしな)
 いつもとは少し違う自分にそう理由をつけて、直江はそのままアポイトメントの時間いっぱい、結婚アドバイザーとしてプロの仕事をすることに専念した。



「結婚狂想曲」より抜粋