二人助六 前編 二

 高耶が「助六」の役作りに悩んでいる間も、舞台と稽古は続く。
 歌舞伎の舞台は、毎月、月替わりで演目が変わる。東京の歌舞伎座、国立劇場、京都、大阪、名古屋、そして博多。そのほかに、西へ、東へと各地を回る巡業や地方の芝居小屋などなど、舞台自体の数も決して少なくない。
 芝居は毎日、午前と午後の部のニ回行われ、演目はそれぞれ異なる。午前と午後、それぞれ休憩時間も含めれば丸五時間もある。毎月初旬に初日を迎え、その月の末で千穐(秋)楽を迎える。
 その間には昼か夜、あるいは両方の舞台をこなしつつ次の芝居の稽古が始まる。全体で合わせる稽古は、千秋楽を迎えてから翌月の初日までの一週間程度しかない中で行う。
 歌舞伎以外の演劇が、稽古に最低でも1カ月、多くは数ケ月かけるのが通常であるのを考えれば、圧倒的に幕が開くまでの時間は短いといえる。



 その日、高耶は幼い頃から世話になっている舞踊の師匠につき、踊りの稽古をしていた。
 六十歳を過ぎ、半分程白くなった頭をきちんと撫でつけ、頭からつま先まですっと一本筋が通っているかのような立ち姿の師匠の、口で紡がれる音楽に合わせ、高耶は舞う。
 演目は娘道成寺。
 女形での舞踊劇で、今度の舞台で演じることになっている。初めての役ではないが、まだまだクリアしなければならない課題も多い。
「景虎、もう少し左の手をひいて、そう。もう一度……うーん。やっぱり長い。手首の先から切ってしまいたいくらいだね」
 師匠の言葉に、高耶は動きを止めて目を伏せる。
「……すみません」
 うなだれた高耶は、手足がすらりと伸びた現代の若者らしいプロポーションを持っている。
 ただ、その恵まれた体系はこの世界ではいいことばかりではない。昔から受け継がれている歌舞伎のみならず、その他の芸能というのは、そもそも昔の日本人の体形が一番美しく見えるように進化してきた面がある。
 そのため、現代ではスタイルがいいといわれる、手足が長さや頭の小ささが、踊りや仕草の美しいバランスを損ねてしまうことがままあるのだ。
 それをカバーするためには、型どおりの動きをトレースするのではなく、己の身体の形を踏まえ、肘膝をさらに曲げるなどの工夫が必要となる。当然、体への負担も決して軽くない。
 稽古が終ると、高耶はそのまま一人残り、先ほど注意された部分を中心にさらう。一見しなやかな動きだが、高耶のこめかみをすべりおちる汗は、とどまることがない。
 ふと集中力が切れたところで時計をみると、もういい時間だった。
 今日はここまでにしておこうと、んんっと背伸びをした。
「あででででっ」
 やはり腰と膝にくる。まだ大丈夫だが、早めに整体に行っておいた方がよさそうだ。
 この踊り自体も一人でやるものだからまだいい方だ。これで自分より背が低い立役(男役)の女形を務めるときには、立役よりも小柄に見せるために、さらに肘膝を曲げなければいけない。一、二度そうした経験もあるが、あれは素直に背丈のある女形の先輩役者を尊敬したものだ。
(っていうか、あっちもどうにかしないとな)
 「助六」の方だ。高耶は思わずもれてしまったため息を、戻す術なく、ついでにもうひとつはき出した。



 それから数日後、歌舞伎座でかかる芝居の出演者として、高耶は楽屋にいた。
 高耶は自分の支度を済ませると、ある場所に向かった。
「どうぞ。今、中にいらっしゃいますから」
 付き人の案内に高耶は礼を言い、
「失礼します」
と、橘の紋が染め抜かれた暖簾を潜った。
 高耶が部屋に入ると、相手は鏡台のそばに座り、来月の舞台の台本らしいものを読みながら煙草を咥えていた。
 ゆっくりと立ち上る紫煙と、ページを一枚一枚めくる男らしい骨ばった手。日本人にしては若干色素の薄い髪をすっとかきあげるその仕草まで、すべてが完成された映像のようだった。
 ふとその動きが止まり、はたと顔をあげ、優しい鳶色の瞳が高耶をとらえた。
「ああ、すみません。本に集中してしまっていて」
 台本を閉じ、手の中の煙草も揉み消して、若手随一と言われる橘屋の安積九郎左衛門は、にこやかに流れるような動作で高耶に座布団を差し出した。
「来てくださったのに、すみません。どうぞ座ってください」
「いえ。こっちこそ。お邪魔してしまって。あの、ちょっと初日の挨拶に伺っただけなので……」
 今日は舞台の初日で、まだ目下の高耶は先輩役者への挨拶回りをしている。挨拶は毎日一日のはじまりと終わり両方伺う。これも歌舞伎の世界のしきたりだ。最初はその数に目が回る思いもしたが、今はもう慣れっこだ。
「『助六』、されるそうですね」
「あ……あ、はい。そうなんです」
 九郎左衛門は確かこの頃三十を超えたばかりだったはずだ。もともと年齢に似合わないほどの落ち着きをみせていたが、このところはそれに厚みが増してきたようだ、と専らの噂だ。
 実は高耶は、自分が小さい頃、九郎左衛門には稽古場やその回りなどで随分遊んでもらった。歳を重ねるにつれて少しずつそういう機会も減り、この歳になってみると、仲が悪いということはまったくなく、でも最近はとんと付き合いが薄く、でも昔は随分仲良しだった、という微妙な距離感が少々高耶を居心地悪くさせる。
「どうですか? 稽古。大変でしょう」
「はい。なんかどうしたらいいのかわからなくて……。あ、や、すみません。こんな愚痴」
 高耶はあわてて頭を下げた。
「いえいえ。私も苦労しましたから。助六といえば、『天下一の色男』ですけど、さて『天下一の色男』って何なんだ、とね」
 え、と顔をあげると、九郎左衛門は苦笑して、
「天下一、日本一と言われても、そんなのどうしたらそう思ってもらえるようになるのか皆目見当もつかなくて。結構悩みました」
「そう、なんですか……」
 何だか意外な気がした。
 一回り近く年が離れているはずの彼は高耶にとっては小さい頃から「大人」なイメージしかなく、そんな彼なら「助六」もそう難しくはなかったのではないかと勝手にそう思っていた。
 九郎左衛門は、わずかに首をかしげつつ微苦笑した。
「私で何か力になれることがあればいいんですが。お稽古はお父上に見ていただいているんですよね?」
「はい。ただ父も多忙ですし、それより、まだ見せられる程自分でもやれていないので、そこまでつめた稽古はまだできていないのですが」
「そうですか……」
「あの。こんなこと聞くの失礼かもしれないんですが、助六やられたときって、どんなことされたんですか? 稽古とかいろいろ調べたりとか」
 抑えようと思っていたのに、その必死さが表れてしまったらしい。目の前の九郎左衛門はちょっと驚いたように目を見張ってしまい、高耶はしまったとうつむいた。
 そのとき、暖簾の向こうで気配がし、
「若旦那」
と声が掛けられ、九郎左衛門の「どうぞ」の声に付き人が入ってきた。
「お話し中すみません。そろそろお支度を」
 九郎左衛門はふと時計を見て、いけない、と手元の煙草と本を片付けるために手に取った。
「それじゃあ、オレ失礼します」
「あ、待って」
 一礼しておいとましようとした高耶を九郎左衛門が呼びとめた。
「私などで力になれるようでしたら、いつでも言ってください。今度せっかくですから、何か旨いもの食いに行きましょう」
 と。そして「あなたがお嫌でなければ、ですが」と続けた。高耶は首を振って、
「そんなことはないです。ぜひお願いします。……あ、でも兄さん、忙しいのに」
「『直江』、でいいですよ。昔、そう呼んでくれていたでしょう。私のときにもいろんな方に助けていただきましたから。スケジュールがつまってくると、あまりできなくなってしまうかも知れないのが申し訳ないんですが」
「勿論です。ご自分の方優先してください。あの、よろしくお願いします。兄さん」
 高耶が頭を下げると、相手はくすっと笑った。
「『直江』ですよ。私も昔のように呼ばせてもらいますから、高耶さん」
昔の記憶通りの笑顔だ。一瞬ためらったが、
「よろしく。直江」
 そう答えて、高耶は自分の部屋へ戻って行った。
 思いがけず、昔のように直江が接してくれたことがとても嬉しかった。「何か良いことでもありましたか?」と自分の付き人の八神が聞いてきたほどに。



 約束通り、それから数日して直江は高耶のために時間を作ってくれた。
 場所は上杉の家の稽古場。養父に話すと「いろいろやってみなさい」と快く許してもらうことができた。養父の懐の大きさでもって、自分がこの家で伸び伸びと役に稽古に打ち込めるありがたさを、高耶はつくづく噛みしめた。
 時間通り訪ねてきた直江を稽古場に案内すると、二人は早速稽古を始めた。
「少しだけ、やってみてもらってもいいか?」
 高耶のリクエストに、私服から浴衣姿に着替えた直江が少し困ったような笑顔を見せた。
「いいんですが……。でも、ここしばらくやっていないので、間違えたりしたらすみません」
 直江は高耶の手持ちのCDを一度、さらっと聞いてテンポを確かめたあと、借りた小道具の蛇の目傘を開いたり閉じたり、軽く回してみたりなどしてその感覚を確かめ……。
すすっと下がって立ち位置をとった。
 その瞬間にぱっと顔つきが変わる。普段の落ち着きを払ったものから、血気盛んに、しかしこの上ない色香溢れる、文字通り江戸の華となる。
 舞台にいるときのように顔を白く塗り、赤い隈取りをしているわけでも、衣裳の縮緬の黒の着物を着ているわけでもない。
 しかし、確かに天下一の色男「助六」だ。
 音に合わせて直江が動く。緩急のある動きに呼吸のテンポを奪われる。
 直江は最初から、寸分の隙もなく「助六」だった。
 出端の部分だけやり終えると、直江はほっと息をついて高耶に向き直った。
「高耶さん?」
 声を掛けられて、完全に放心状態の高耶は、
「すご……い」
と声を漏らした。
 膝の上で握りしめていたこぶしの中は汗で濡れている。そのこぶしも余程強く握っていたせいか、思うように開かなくなっていた。
 テレビの画面でさえ見て体が震えるものを、こんな間近で見ればもう体の奥がぐらぐらとゆさぶされて、頭は熱に浮かされたようだ。まばたきする間さえ惜しかった。根こそぎ意識を持っていかれるとはこういうことだと、改めて知る。
「すごいな。やっぱり、すごい」
 茫然としたように「すごい」と繰り返す高耶の言葉に直江は苦笑した。
「お褒めいただいて光栄なのですが、高耶さん。あなたもこれをやるんですよ。役者の目で見ていただかなくては」
「あ……」
 高耶は直江の言わんとしていることを悟って動揺した。
 今の自分は役者としてではなく、ただの観客として観ていた。それは、これから助六をやる者としての覚悟も自覚もなく、その甘さを直江に指摘されたのだった。
「わ、悪い」
 高耶は素直に謝るしかなかった。
「謝らなくてもいいです。こちらとしては将来有望の人気役者・上杉景虎殿に見惚れていただいて、身に余る光栄です」
「……は?」
 ぽかんとして顔を上げると直江は先程とはうってかわって、面白そうに笑っている。さっきの苦いものが混じった笑みとは違うそれに高耶はほっとしつつも、何となく子どものようにぶすっとしたい気分になった。
 大人の余裕ってやつかよ、とそう思った。
「……なんか、むかつくんだけど」
「はい?」
「何でもねえ。それじゃあ稽古よろしくお願いします。センセ」
「はいはい」
 はたして、直江の師匠ぶりは、想像よりはるか厳しかった。
 物言いは柔らかだったが、しかし厳しい指摘を容赦なく高耶に浴びせた。
 その日二人は、八神が「そろそろご飯召し上がりませんか」と恐る恐る声を掛けてくるまで、稽古に没頭し続けたのだった



「二人助六 前編」より