――コンコンコン。
薄ぼんやりとした意識の中で、三味線の音に混じって戸を叩く音がした。
ふっと、高耶は覚醒した。
(……眠っていたのか)
稽古のあとにシャワーを浴びて、自室で長唄のCDを聞きながらのんびりしているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。
……コンコンコン。
再び、やや遠慮がちに戸が叩かれた。
「はい」
床に座ってベッドの枠に寄りかかっていた体を起こし、高耶は返事をした。
「申し訳ありません。お休みでしたでしょう」
ドア越しに養父・謙信の弟子で付き人でもある八海がそう声をかけてきた。
「どうした?」
「旦那様がお呼びです」
「お養父さん?」
「はい。書斎の方に」
「わかった。すぐ着替えて行くから、もう少しだけお待ちいただくように伝えてくれ」
「わかりました」
高耶はシャワー後に無造作に羽織っていた浴衣を手早く脱ぎすて、白いシャツと細身のパンツに着替えた。ミニコンポの停止ボタンを押し、部屋の隅に置いている姿見で、身なりをさっと確認する。
後ろ髪が少し跳ねている。それをひと撫でして高耶は部屋を出た。
階下に降り、白木張りの磨きこまれた長い廊下を歩んで、高耶は養父の書斎の戸を叩いた。「どうぞ」という声を聞き取って高耶は無駄のない動作で戸を開け、中に入る。
純和風の建物の中で、高耶の部屋は洋室にしつらえてあるが、養父は畳に文机のスタイルだ。
養父の部屋の壁には、仕事の資料となる本でびっしりと埋まった本棚が並んでいる。高耶の部屋にも同じように本やCD、ビデオなどが並んでいるが、この養父の棚には古びた和綴じの本なども混ざっていて、その研究熱心さには高耶はまだまだ到底及ばない。
「お待たせしました。何かありましたか」
高耶が一礼すると、文机に向かって座っていた謙信がこちらを振り返った。
「ああ。すまない。そこに」
謙信はここ数年でかけるようになった眼鏡を外しながら、高耶に座るように促した。
「こうして見ると背が、また少し伸びたかな」
毎日の稽古の師匠であり、しょっちゅう顔を合わせている謙信と高耶だが、稽古場では父と子、というより師匠と弟子という関係なので、芝居以外の話は滅多にしない。
「まだ少しずつですが伸びているみたいです」
そう高耶が言うと、
「男の子だから、まだあと二、三年は伸びるだろう」
と、目の奥を微笑ませて謙信は言う。
「いえ、これ以上伸びると、いろいろな役に差支えがあるので止まってほしいところなんですが」
高耶は苦笑した。
「私も若い時分にはこれでも背丈は人よりある方だったが、今の人はもっと大きいね。伸びてしまうのは仕方がない。あまり気に病んではいけないよ。……さて、という話はここまでとして。ところで、だ」
謙信が話を切り出した。
「おまえにね、任せたいという役の話が出ている」
「役、ですか」
何だろう、と高耶は頭をめぐらせ自分で候補を挙げてみる。話の流れからすると、まだこれまでにやったことがない初役ということになるだろうが。
あれか、それか……それとも……。高耶が思案していると、思わぬ役名が謙信の口から飛び出した。
「『助六(すけろく)』をぜひ、と」
「は……。『助六』、ですか?」
微笑みをそのままにそう言った謙信の予想だにしなかった言葉に、高耶は絶句した。
「そう。どうだろうかと」
「……」
高耶は瞬時には言葉を選びあぐねて、視線を漂わせた。
「急で驚かせたかな。この話はおまえの思う通りにしていい。私もおまえなら、と思っているが、おまえ自身がまだ時期が早いと判断するなら、今はお断りさせていただいても構わないよ」
そう言った養父の目は優しい。
どう、答えればいいのか……。
「……少し、考えさせていただいてもよろしいでしょうか」高耶はなんとかそのセリフを喉の奥からしぼりだした。
今は、それだけ言うのが精一杯だった。頭の中がふわふわして思考がまとまらない。
高耶は呆然としたまま、ひとまず謙信の前から下がり部屋を出た。
戸を閉め、ふと視線を移した先にある廊下の飾り棚の花が、やけに今日は脳裏に焼きつく。急なことで頭が混乱し、別のことに思考を逃がそうとしている自分に気づいて、少し苦い気持ちになった。
今の話をもう一度自分の頭の中で反芻する。
近い将来いずれはやることになるだろう、と思ってはいた。だが特に根拠はなく、少なくともあと四、五年はあとの話だろうと。
「『助六』? オレが?」
想いは思わず言葉となって、漏れた。
―― 仰木高耶。
その名より、「上杉景虎」という役者としての名の方が、世間には通りがいい。
江戸歌舞伎の名門、越後屋上杉家の後継者として不足ない技術と存在感を放ち、若手の歌舞伎役者の中でも最も人気の高い一人に数え上げられる。
すらりと伸びた手足、野性味がありつつも品を感じさせる端正な顔立ち。
少し厚めの唇から紡ぎだされる台詞は、熟練にはまだほど遠いものの、飽きるほどに繰り返されてきた名文句もただの文字の羅列ではなく、命の息吹を吹き込まれ、今そこで生まれたかのごとく聞く者の耳に届くと評判が高い。
そして何よりそのまなざしの鋭さでもって、比類なき独特の存在感を放っている。
そうして今は、上杉家の宗主・上杉謙信の後継者としてある高耶だが、実は生まれは同じく歌舞伎の名門・相模屋の北条家である。
数年前、子のない上杉家の養子となり、跡継ぎの証となる「景虎」の名を継いだ。現在暮らすのも上杉の本宅だ。
この時代に珍しく、相模家では多くの兄に恵まれた高耶は、最初の頃こそ使用人も最低限しかいない静かな上杉の家をどことなく寂しく思ったが、今はもう慣れ、優しくときには厳しい謙信のもとで暮らしている。
その高耶が打診をされた「助六」とは、歌舞伎の代表的な演目の一つで、その物語の主人公の名前でもある。
舞台は江戸の頃。吉原一の花魁・揚巻の恋人である花川戸助六、実は曾我五郎は、夜ごと吉原で喧嘩を吹っ掛けている。助六は源氏の宝刀「友切丸」を探していて、その目的のために相手を怒らせて刀を抜かせ、それが友切丸でないか確かめているのだ。ついには念願の友切丸を見つけ、終幕を迎えるというのが物語の大筋だ。
話の筋自体はさして複雑なものではないが、江戸っ子の憧れである色男・助六と花魁・揚巻の華やかさと格好のよさ、江戸の粋、歌舞伎の美学が存分に盛り込まれた、豪華な絵巻物のような芝居だ。
この「助六」を演じるということは、役者として実力、家柄、人気も一級であることの証といっても過言ではない。
すでに高耶は「助六」の中でも、うどん屋の担ぎの役を務めている。
助六の敵役である「意休」に啖呵をきって喧嘩を売る、その名の通りうどん屋の出前を担ぐ者の役だが、粋な江戸っ子の象徴で名脇役であると同時に、気鋭の若手や助六の後継者と目される役者が務めることになっている役でもある。
その役を演じたということは、いずれは「助六」を演じることになる者、つまりは次世代の重鎮候補だということであり、それは自分も周囲も知っていることだ。
だから、いずれ「助六」の役が来るだろうことは分かっていた。ただそれが今来たことに高耶は動揺を隠せない。
早すぎる、と思うのは何も高耶だけではないだろう。しかし、今これを断れば次はいつまた話をもらえるかどうかもわからない。
「助六」は歌舞伎の数ある演目の中でも規模も大きく、昔から特別な演目として位置づけられている。
江戸の頃は「助六」が上演されると、芝居小屋のみならず周辺の茶屋にも装飾を施し、空き地にはわざわざ桜まで植えたという。もちろん現在では行われてはいないことだが、それでも今も昔も「助六」が特別なものであることには変わりはない。
いつでもどこでもやれる演目ではない。興行主がここ数年の様々なスケジュールを見通して「今」だと判断したのなら、「今」なのだろう。タイミングを外せば、次はいつになるか分からない。
それに、「助六」はまがりなりにも役者にとっても無論高耶にとっても憧れの役であり、特に好きな役でもあった。やってみたい、という気も強い。
(……やってみようか。いや、やるしかない)
状況も、自分の気持ちもそちらを向いている。
身体が震えるほどに不安は大きい。大きすぎて、もうそれが不安だかどうかさえわからなくなるぐらいに。
だが、やってみようと思った。
決心を固め、高耶は拳をぐっと握り締めた。
自宅にある稽古場で、高耶はひとり助六の稽古をしていた。
着込んだ上杉の紋が染め抜かれた浴衣は、すでに汗で色を変えている。白い足袋越しに床の木目の感触を追いながら、すっと足を滑らせていく。繰り返し、繰り返し最初の見せ場となる出の部分をさらう。
あるところで高耶はぴたりと動きを止めた。
(違う。こうじゃない)
もう一度、元の位置に戻って深呼吸をし、最初の一歩を踏み出す。しかし、また同じところで動きを止まってしまった。
(違う。違う。全然違う!)
高耶は頭を横に振った。
時折、胸をかきむしりたくなるような焦燥感にとらわれる。違うことははっきりわかっているのに、どう違うかはわからない。あるいは、そこはわかっても頭で思い描く通りに体が動かない。
自分の身体への苛立ちに堪え切れなくなり、だんだんと足を踏み鳴らし、大腿をこぶしで叩いた。それで解消されるわけではないことはわかっているが、そうせずにはいられなかった。
イメージどおりに体が動かない。
そして今は何より、役の理解への足がかりさえつかめていないことがこの衝動をさらに掻き立てていることもわかっていた。
幼い時、まだ自分が北条の家にいた頃、初めて養父・謙信の「助六」を観て、息ができないほどの衝撃を受けた。
自分が北条の家を出て上杉の養子になるとき、迷いや不安がなかったと言えば嘘になる。だが、あの「助六」を演じる謙信の後継となれるのだ、という喜びがそれを断ち切った部分が実は大きい。それほどに心酔した。
何にそれほど、底知れぬほど引き込まれたのかはわからない。体の中身を丸ごと持っていかれるような感覚。それを言葉にはできない。
とっくに役の台詞はすべて頭の中に入っている。動きも。だが、それだけでできるわけもない。
(くそっ!)
音と体、そして気持ちのひずみに耐えきれずに集中力が切れ、高耶は再度動きを止めた。こめかみを汗が伝い、ぱたりと床に落ちていった。
まるでそのタイミングを見計らったかのように、
「よお」
と、稽古場の入口から顔を出す者がいた。
「譲、千秋」
立っていたのは、譲と千秋だった。
「邪魔した? はい。すごい汗」
譲はそう言って、そばに置いてあったタオルを放って寄こした。
「サンキュ。大学は?」
「夕方から行く。俺もさっき稽古してきたとこ」
高耶と同い年で、中学と高校は同級生でもあった譲は、今は学生業の方に力を入れているものの、同じ上杉の歌舞伎役者だ。謙信の姉の子、つまりは謙信の甥でもある。
「千秋は? 仕事」
「休み」
対する茶髪の髪を無造作にひとつにくくり、明るい色のシャツを着込んだ男は、一見して何の職業についているかは判断がしづらい。本人曰く「自由業」、らしい。
どんな仕事内容なのかは前にも聞いた気もするが、その内容が煩雑すぎて結局どれひとつ思い出せない。
「暇なのかよ」
「忙しい中、貴重な休み使って様子見にきてやった俺様に向かって、いい度胸だ」
と、顎をしゃくった千秋は、
「千秋」
という譲のひとにらみで大人しくなった。
三人は稽古場から出て、台所に向かう。
高耶は冷蔵庫を開けると、冷えたお茶のガラスポットを取り出し、コップ三つに注いだ。そのひとつを譲に、ひとつを千秋に渡し、自分も口をつける。「お、これうまそう。もらうぜ」と千秋がカウンターの上に置かれていた菓子をひとつつまむ。昔からの馴染み同士。人の家の台所も勝手知ったる何とか、というところだ。
そのまま皆で座敷に移動し、茶卓の周りに座りこんだ。
「聞いたよ。『助六』やるんだって?」
譲がそう切り出した。
「ああ」
「大丈夫? だいぶ手こずってるみたいだけど」
「まあ……。いつかはと思って、前から少しずつはやってきてたし、まだ時間はあるんだけどな。今のところは何とも言えない」
正直、今はそんな感じだ。公演はまだだいぶ先だが、自分がどのくらいのペースで習得できるかわからない以上、そうのんびりもしていられない。
「まだ雲をつかむような感じだな。良いも悪いも、まだ何も感覚がつかめてないし」
はーっと、高耶はそのまま卓の上に伸びた。その様子を見て、譲と千秋は顔を見合わせた。
「九郎左衛門の兄さんに相談したら?」
「兄さん」とは世間一般的な兄弟関係とはまた別で、この歌舞伎の世界では先輩役者を「兄さん」「おじさん」と呼ぶのが慣例となっている。
譲の言葉に高耶はがばっと顔をあげた。
「え?」
「高耶とはまた雰囲気変わるけど、『助六』の経験者の中では、年齢的に一番近いだろ? アドバイスとか、何か突破口見つけられるかも。もちろん稽古をつけてもらうのは謙信の叔父さんだから、その辺加減しなきゃだけど。話聞かせてもらったり相談するのはいいんじゃない? ねえ千秋」
「そうだな。ま、それもひとつだな。いろいろ足掻いてみろや、若旦那」
うしし、と笑う千秋に高耶は汗まみれのタオルを投げつけ、千秋の上げた抗議の声を無視した。
高耶は「考えてみる」と返事をし、まだ心配気な譲に「何とかする」と笑って二人を見送ると、自分はもう一度汗を流しに稽古場へと戻った。
「どう思う?」
上杉の本家から駅に向かって歩きながら、譲が傍らの千秋に問いかけた。
「やれるだろ。あいつなら」
相手の言わんとしていることをくみ取って、そうさらりと答えた千秋に、
「根拠なくて言ってるだろ」
と、譲はにらんで返し、にらまれた当人は困ったように眉根を寄せて首筋に手をあてた。
「怖えーな、おい。……つか、やれないという選択肢はないんだしよ」
「……そういう言い方のほうが、正しい、か。こけるなんて許されない、っていうより、そもそも『こける』ってこと自体ありえないだもんな」
譲は千秋から視線を外し、ほっと溜息をついた。
「くやしいな。俺には何もできない」
「俺だってできねぇよ。ただまあ、俺らみたいに、あいつの立場わかってる人間がいるってことは、やつにとってちっとはましかもしんないと勝手に思ってるけどな」
昼下がりの通りで、先を急ぐサラリーマンに何人か抜かれながら二人は歩く。
「まあ。こればっかりは当人の問題だ。背負ってるもんも軽くはねえしな」
千秋の言葉から少し間があいてまた譲が切り出した。
「……だから、歌舞伎やめた?」
「いきなりずばっと訊くよなー、おまえ」
千秋は苦笑した。
実は、千秋も元は歌舞伎役者、だった。
だった、ということで今は違う。代々続く歌舞伎役者の家に生まれ、「安田長秀」という役者名で幼い頃から舞台を踏んでいた。
一時は、次世代の歌舞伎界を担う若手の一人、とそう呼ばれてさえいた。実際、特に細かな仕草やセリフ回しで、十代とは思えぬ達者な演技をし、将来を期待されていた。
しかし、その千秋も高校入学を過ぎたあたりから徐々に舞台に上がることが減っていき、やがて自分の道が「役者」ではないことを悟り、名前を返上し廃業した。
その家に生まれながらも、結局は役者にならないという例も実はないことでもない。最終的には、本人の意思にゆだねられる。そういう例のひとりだった。
「俺は向いてないって思ったんだよ。ただそんだけ。それに家だの何だのってのも、俺には面倒だったしな。気ままにやるのが向いてんだよ」
そう言ってひょいと眉を上げて見せる千秋は、本音を語っているようで、もっと別の言葉を胸の中に秘めているようにも見える。それを見抜く術は譲にはない。
「で、そういうおまえはどうなんだよ。上杉景勝。おまえも、上杉継げる立場だっただろうが」
「継ぐのは高耶だ。オレじゃない」
話を返された譲は不機嫌そうに千秋から視線を外した。
高耶と同じ越後屋に属する「上杉景勝」というのが彼のもうひとつの名だ。
一時は子のない謙信の後継者と目されていたが、自分の技量に早くから名を継ぐには足りないものを感じ、早々にその役目を辞退した。その結果、高耶が養子として上杉の家に入り後継ぎの証ともいえる「景虎」を襲名した。
そのことを後悔したことはない。
高耶がもし兄の多い相模屋に留まったままであれば、せっかく才能を持っていても、年齢や家の格がものをいう歌舞伎の世界。大きな役を演じることがままならず、その才をくすぶらせたままだったことは想像に難くない。
ただ、小さい頃から一緒に舞台にあがってきた無二の親友でもある高耶に、「名門・越後屋」という重責を負わせたことへの申し訳なさがあるのは否めない。
自分がそう思っていることを高耶が知ったら決して喜ばないだろうとわかっているから、口にしたことはないけれど、ずっと胸の中にしこりのように疼いている。
「今は大学に行ってて、そっちに力を入れて舞台に上がるのは少ないけど、卒業したら専念する。せめて高耶を支えられるようになりたいし、やっぱり昔みたいに高耶と一緒に演るのは楽しいし」
そう言った譲に千秋は「ふーん」と相槌を打った。
「何、そのやる気のない返事」
「いんや? おまえ、どうすんのかと思ってたからさ。ま、がんばれや」
そう言っているうちに最寄りの駅に着く。
「言われなくても。あ、俺は地下鉄で行くから」
「あ、大学そっちだっけか。んじゃここで」
「じゃ」
そこで二人は別れた。
一方、譲と千秋が帰ったあと、しばらく稽古を続けていた高耶だったが、結局何も手ごたえがつかめないまま切り上げることになった。
汗に濡れてしぼれそうな浴衣を脱ぎすて、シャワーを浴びて自室に戻った。
どっとベッドの上に倒れこみしばらく顔を伏せていたが、ふと視線を上げた。壁一面の作りつけの棚には、すき間なく歌舞伎に関する資料や舞台の録画ビデオテープ、DVDが並んでいる。
高耶はむくりと起き上がると、その中からひとつのビデオを取り出した。ラベルの日付をみると、八年前。当代の安積九郎左衛門が初めて「助六」を演じたときのものだ。
ビデオデッキにテープを押し込み、いつもの定位置であるベッドに腰掛けた。
ビデオの再生が始まり、まだ幕が閉められたままのざわついた客席の様子が映り、そこに配役のテロップが流れていく。さすが「助六」そうそうたる面々の競演だ。
やがて幕があき、そこは吉原、三浦屋と染めた大暖簾のかかる女郎屋の格子先だ。
華やかな舞台に次々に役者達が登場し、顔をそろえていく傾城(遊女)たち。そこに吉原一の花魁・揚巻が登場し、客席がわっと湧く。
恋人の助六を馬鹿にされて言い返す、その啖呵の小気味の良さと女っぷりにため息が出る。
そして再び客席が何となく落ち着かなくなってくる。
主役・助六の出番だ。
「思い出見世や、清搔の、音〆の撥に招かれて――」
語りに合わせて、花道奥の揚幕からいさましい下駄の音が聞こえ、九郎左衛門の助六が登場する。手にする蛇の目の傘をすぼめて、その中に顔を隠し足早に表れ、花道の途中、まだ揚幕に近い位置でぴたりと止まる。
「――思い染めたる五所…」
で傘を開き、左手に傘を持ちかえてそこで初めて顔を見せる。
高耶は何度も見ているはずのこのビデオを見ながら、またも背中を戦慄が駆け抜けるのを感じた。
黒縮緬の着つけにその間から見える赤いふき返し、江戸紫の若衆鉢巻を右側にきりりと絞め、足袋は黄色、紺に白の蛇の目傘。これに白塗りの顔の目尻鼻筋にほどこされた「剝身隈」と呼ばれる紅色の隈。
そのすべてが江戸一、いや日本一の色男・助六の色香を漂わせる。
「橘屋!」
大向こう、と呼ばれる掛け声がいっせいにかかる。
「橘屋」は安積九郎左衛門の屋号で、他にも「九郎左衛門!」、「待ってました!」などなど、大向こうにはいろいろな種類がある。
大向こうは基本的には誰が言ってもいいのだが、声を掛けるタイミングで、芝居の見せ場が締まったり、逆に間の抜けたようにもしてしまう。加えて、観客といえど声の良し悪しも無関係ではない。
歌舞伎に何度も数えきれぬほど通った目の肥えた者でなければ難しい、その大向こうが、いつもの芝居の何倍も掛る。
「橘屋!」
この花道で行われる助六登場の場面「出端」と呼ばれ、この「助六」の出来を大きく左右する最も重要なところである。九郎左衛門はそこをぴんと張り詰めた緊張感を持って、文句などつけようがない存分に存在感を放ちやりきった。
その魅力に魅せられた観客はそのまま「助六」の世界に引き込まれていく。
九郎左衛門の「助六」は人気を呼び、その一年後には再演も行われることとなるが、それも当然のことだったと言えるだろう。
高耶は半ば陶然と画面に没頭し、幕が引かれ、画面が砂嵐になったところでようやくビデオの停止ボタンを押した。
謙信や九郎左衛門、それ以外にも助六を演じた名優と呼ばれた人々……。これを自分が演じるのか。敵う敵わないなどまた別次元の話で、その前に自分はこれをできるのか。
目に見えぬ膨大な、とてつもない不安が高耶を襲った。
「二人助六 前編」より