Red Moon 2

 窓の外からかすかに鳥のさえずる声が聞こえる。
 そこに八海が手際よく給仕をする音が混じる。
「旦那様、おかわりはいかがでしょうか」
 そろそろ空になりそうな直江の飯茶碗を見てとって、八海がそう声を掛けてくる。
「いや、もういい」
 短く断る。
「かしこまりました。高耶様はいかがですか?」
「あ、はい」
 目の前の青年は残り一口分のご飯を口の中に放りこむと、茶碗を八海に差し出した。八海が心得たようにしっかり白飯を盛り、茶碗を高耶に渡すと、彼はまたそれを口の中にかき込みはじめる。
 なかなかいい食べっぷりだ。
 豪快なはずなのだが、今時の若者には珍しく、出された骨付きの焼き魚も骨と頭を残してきれいに食べられているし、箸の持ち方もきちんとしている。変な話だが、彼の食べる姿は見ていて気持ちがいい。
 と、高耶がこちらをチラチラと見てくることに気づく。なんだか少し居心地が悪そうだ。
 ああ、と直江は気づく。そのつもりはなかったのだが、長い時間、彼の様子をじっと見てしまっていたらしい。
 高耶が目線だけこちらに向けて、
「何かオレの顔に付いてるか?」
と尋ねてくる。
「いえ。まあ、付いているといえば付いていますね」
「え、マジ? どこ」
「目と鼻と口、ですかね」
 我ながらセンスのない冗談を言ってみる。
 すると高耶は胡乱気な目を向けてくる。表情がわかりやすい。
「というのは冗談で、本当に付いていますよ、ご飯粒」
 頬の右を指し示しながら教えると、高耶はやや焦ったように箸を握ったままの手で頬を拭おうとする。
「もう少し、右です」
「こっちか?」
「ああ、取れました」
 高耶はほっとした顔でまた食事に戻っていく。
 箸を置いて食事を終えた自分の目の前に、八海が淹れたての煎茶を差し出した。お茶の爽やかな香りが鼻腔をやさしく刺激する。
 こんな朝の風景にもようやく慣れつつある。
 この屋敷の敷居を初めて跨いだのが、おおよそ一ケ月前のことだ。
自分の向かいの席で今なお口をもぐもぐさせている彼は、「仰木高耶」という名前だった。
初日に屋敷の庭で会った青年は、その日のうちに八海に連れられて、直江の前に姿を現した。
 初めて会ったときの印象そのままに、ずいぶん瞳が印象的な青年だと思った。二十歳くらいかと思えば、今、十八歳だという。彼もここに来てまだそんなに日が経たないのだと言っていた。
 時折見せる彼の表情は大人びて見え、だから二十歳ぐらいなのでは、と思ってみたが、十八歳と聞けばなるほど、それくらいの年齢らしいところも見えてくる。
 服装もヘアスタイルも、今時の十代の男の子っぽさ、というものはなかったが、かといって地味というわけでもない。直江は仕事柄、初対面の相手を外見から分析するのに比較的長けているほうだが、彼に関してはいまひとつよくわからなかった。
 流行に沿ってはいないが、流行遅れ、というわけでもない。どこか凛とした雰囲気を持ち、一方で荒削りな粗野な印象もある。不思議な青年だ、とそう思った。
 この屋敷で暮らし始め、最初はその生活に随分戸惑ったものだ。
 ここに来る前は都心のマンションにひとり暮らしで、気ままにやっていたのだ。
 こんなだだっ広い屋敷で一部の部屋を除いて畳の生活。実は実家が寺なので、長年忘れていたひとつ屋根の下、自分以外の人間が住まう場所で生活することとか、バスローブやパジャマが浴衣になったこと、今こうして正座で朝食を食べていることとか、そういうことは比較的すぐ慣れた。
 だが、身の回りの世話をすべて人にやってもらう、といったことにはなかなか慣れないでいる。
 「当主」という古めかしい言葉そのままの生活スタイル。マンションで暮らしていたときに雇っていた週二回勤務のホームキーパーや、ホテルでの各種サービスなどとは一歩飛び越えたところに、今の生活がある。
 幸いなのは八海をはじめ、この屋敷の者たちが皆とても優秀だということだ。あれやこれやと細やかな気遣いは見せるが、直江が「これは自分でやる」と言ったものについては一切干渉してこない。
 慣れれば快適なのだろう。
 まあ、人目が常にあるというその一点については、慣れるということは、なかなか難しそうではあるが。
「直江って小食か? ってか、オレが食い過ぎ?」
 煎茶を口にしていると、高耶が上目遣いでこちらを見てくる。
「そんなことはないと思いますよ? 成長期の男の子でしたら、当たり前だと思いますが。私は元々朝食を食べる習慣がなかったので、これでも多いぐらいかもしれません」
 そう言うと、高耶がわずかに目をみはった。
「全然食わないのか? オレは朝食べないとか、絶対無理だな。昼まで持たない」
「食べる方がいいということは知っているんですが。独り身で適当にやっていましたからね」
 実際、以前は朝はコーヒー一杯がせいぜいだった。ここに来て、毎朝きちんと食事をする時間が確保されている。
 最初はいらないと言おうとしたのだが、自分が食べなければ、彼が、高耶がひとりきりで食事をすることになる、と八海に聞かされて踏みとどまった。
 高耶のことはよくわからなかったが、少なくともどこかの金持ちの息子には見えなかった。
 自分と同じようにこの家の者にいろいろ世話をされて、たまに居心地悪そうにしているのを見た。どんな事情かしらないがここへ来て、慣れない生活をして、さらにこんな広い屋敷でひとりきり食事をするのは寂しいのではないか、と思ったのだ。
 そんなことを考えたのは、あとになって考えてみれば随分いつもの自分らしからぬことだった。
 ただ、そのときは慣れない生活環境に、自分も少しペースを崩していたのかもしれない。
 それなりに歳の離れた自分が、高耶のような年下の青年にとって面白い話相手になれる気もしなかったが(実際、半月ぐらいは話題に困った)、最近は少しずつ取り留めのないことを話すようになった。
 この屋敷に来て一ケ月。
 少しずつ、いろいろわかってきた。
 が、不思議なことはまだまだ多い。
 例えば、目の前の彼。高耶のこともよくわからない。
 今、知っていることと言えば、自分より少し前にこの屋敷に来て、十八歳である、ということぐらい。
 その歳であれば高校に行っているはずなのに、彼にはその様子はない。二人きりの毎朝の食事が済むと、直江は仕事に向かうが、彼はこの屋敷で過ごしているようだ。
 直江が仕事から戻って来てからも会うことはあるが、基本的に直江の帰りは日付が変わるくらいの時間になるため、必ず会う時間といえば、朝食のときだけだ。
 そもそも、彼と一緒に朝食をとるというのも不思議な話ではないかと思う。
 屋敷に住まうようになって、毎朝、彼と二人きりで食事をしている。その場に給仕をしてくれる八海はいるが、彼はあくまで食事の世話をしてくれるだけで、一緒にその場で食べるということはしなない。
 八海やそれ以外の屋敷内の使用人が、主人と同じ食事の席に座る、ということがないというのは、昔ながらの慣習を引きついでいるのだと言われれば、まあ納得はする。
 では、その主人と同じ席についている高耶はどうだ。よく知らないが、主人と同格か、あるいはそれに近い存在であれば、そういうこともありそうだ。例えば家族とか。
 しかし、高耶は直江の家族ではない。はずだ。
 ただ、屋敷の者たちは高耶を「様」を付けて呼ぶ。どういう存在なのか。彼の肉親らしき人物もここにはいない。姓も「仰木」。本家の「直江」姓とは異なるから、直江の親戚というわけでもなさそうだ。
 なぜここに彼はいるのか。
 一度だけ、千秋に聞いたことがある。彼は、何者なのかを。
 聞かれて千秋はいつもの人を食ったような笑みを隠し、代わりにまったく表情を読ませぬ顔で言った。
「フコ、だ」
「フコ? なんだ、それは」
 聞きなれない響きに直江は首をかしげた。
「今にわかるさ。わからないままの方がいいかもしれないけどな」
「?」
 そう言って千秋は肩をすくめた。
 疑問は深まっただけで、千秋はそれ以上答えてはくれなかった。
 縁側の向こうに見える手入れの行き届いた庭は、今日も美しく、どこか現実離れしている。
 これが日常だなんて、なんとなく馴染まない。
 直江は残りのお茶を飲み下すと、ひとり静かに息をひとつ漏らした。

 

「社長、明日の会議の資料をお持ちしました」
 メールの返信を打っていた手を止めて、直江は男性秘書に差し出された資料にざっと目を通す。
「悪いが、このS社の関連企業を業務提携しているところも含めて洗い出して、今年と昨年の業績をしらべておいてくれ」
「はい。すぐ手配します」
 あのどこか現実離れした屋敷から一変、直江は今、先日自分が社長に就任したばかりの社屋にいる。
就任式もそこそこに、傾きかけた会社の経営を立て直す作業に追われる毎日だ。
「いかがですか。少しは慣れてこられましたか?」
 秘書が尋ねてくる。
 彼は、直江がこの会社に来たばかりのとき、一社員としてくすぶっていたところを拾いあげた。直江とそう歳は変わらないが、この会社についてよくわかっていて、いい働きをしてくれている。
「そうだな。多少は。でも、まだ触りの部分でしかない。本格的に経ち直させるには多少は時間がかかる」
 わかっていたことだが、古い歴史ある企業というのはある部分で非常にやっかいだ。
 倒産寸前の会社だというのに、東京の一等地、しかも大通りに面したところに自社ビルを持っている。さらに調べてみると軽井沢や熱海と言った昔からある保養地に、それなりの規模の保養施設といえば聞こえのいい、立派な別荘を持っていた。
 前の社長が乗っていたという車は、黒塗りの国の大臣クラスが乗っていてもおかしくない代物だったし、当然専用の運転手付き。社屋のエントランスを入れば、年代物の骨董品に美人の受付嬢が出迎えてくれる。
 代々の社長は旧家の出でもあるので、幸いにもというかそれらの趣味は悪くはない。それなりの審美眼を持っていたことは立派だと思う。
 が、何分、「経営」という二文字においては、恐ろしく時代遅れで無頓着だった。
 システムというシステムがほとんどない。会計さえもいまだに伝票を手書きで起こして電卓を叩くという、ほとんどアナログに近い状態だった。
会社持ちの倉庫もあるが、手元の資料にある在庫数と実際の数がきちんと合っているかどうかも甚だ怪しく、誰も正確な数字がわかっていない、という状態だ。
 何よりやっかいなのは社員、特に年配の社員の意識だ。
 何もかにも時代の流れに合わせるべき、と言うつもりはないが、ある程度の規模の会社であれば、システムによる効率化は取り入れなくては確実に経営が回らなくなる。そうなれば作りたい商品さえ作れなくなるのだ。
 合理的な考え方やシステム、という言葉そのものにさえ嫌悪感をいだいている頭の固い天然記念物をどうするかが、目下の課題だ。
 よくぞここまでどこの企業にも吸収されずにきたものだと思う。まあ、実際のところは吸収はされなかったものの、つぶれかかっていたわけだが。
「お疲れですか? 午後のアポを一件明日へずらしましょうか」
 秘書の気遣いに、直江は首を振った。疲れていないわけではないが、そこまでのことはない。このくらいで参っていては、とてもじゃないがこの先持たない。
 机の脇を見れば山積みの書類、パソコンを覗けば、これまた大量のメール。さて、これを何とか今日一日で目処をつけなければ。
 明日は明日でまた新しい仕事がやってくる。
 やりがいは大いにあるが、同時に多少は暗澹たる気持ちでいるのも確かだ。
 だがそうも言っていられない。
「コーヒーでもお持ちします」
 そう言って部屋を出ていく秘書を見送る間もなく、直江は次の仕事に取り掛かった。



 日曜日、直江は仕事でやることはいくらでもあるものの、先は長いので焦って息切れしても仕方がない、ということできっぱり丸一日休むことにした。
 休日も変わらず高耶との朝食を終え、歯を磨いて朝刊に一通り目を通せば、あとは特にすることはない。
 そう言えば、ここに来て初日に少ししただけで終わっていた屋敷内の散策をしてみるのもいいかもしれない。
 そう思い立ち、直江は庭に降り立った。
 折しも空はきれいに晴れ上がり、雲がたなびいている。時折穏やかに吹く風は、湿度も低く心地いい。
 足の赴くままに広大な庭を歩いていると、ふと前方に人影があった。
「高耶さん」
「直江」
 突然声をかけられ、少し驚いたように高耶がこちらを振り返った。
「何していたんですか?」
「ん? 散歩。直江は?」
「私も散歩です」
「そっか」
 高耶は少し鼻の頭をかきながら、
「いつもスーツだから、今日みたいな格好は珍しいな」
と少しおかしそうに言った。
 今日の直江は薄手のVネックのセーターにコットンパンツというラフな格好だ。言われてみれば、高耶の前でスーツ以外の格好なのは、夜寝る前に浴衣姿なのを除けば今日が初めてかもしれない。
「髪も降りてるし、なんか若い」
「高耶さんより歳はとっていますけど、一応まだ三十路手前なんですが」
「ああ。それ聞いたときびっくりした」
 果たして自分はいくつだと思われていたのだろう。直江は苦笑する。確かに実年齢より若く見られたことは未だかつてないのだが。
 そういえば、こうして二人きりで話すのは、あの初日に会ったとき以来だ。
「いつも、毎日何をしているんですか?」
 一緒に庭を歩きながら、直江は高耶に尋ねる。
「えっと、ここの道場に行って変なじいさんに稽古してもらってる」
「稽古、ですか? 何か武道でも?」
「いや、基本的に座って目を閉じて、呼吸を整えて、ってそれだけ」
「それだけ、ですか?」
 直江が首をかしげると、高耶もなぜか同じように首をかしげる。
「なんか集中力つけるための訓練らしいんだけど」
 その様子だと、高耶自身も自分のしていることがよくわかっていないようだ。
 謎は深まるばかり、か。
 直江が逡巡しているとふと傍の高耶が少し不安そうな表情をしているのに気づいた。
「なあ、オレみたいなガキの話、おもしろいか?」
「ええ。楽しいですよ」
 これまで、高耶ぐらいに歳の離れた友人はいなかったが、仕事から離れてポツポツと取りとめなく話すのは、存外おもしろい。
「……そうか」
 高耶は少しぶっきらぼうにそう言ったが、でもほっと安心しているのがわかった。
「しかし、道場なんてあったんですね」
「この屋敷の裏手の方。ここでかいし、木がいっぱい植わってるからよくわかんねえよな。五分くらいは歩くかな」
「そうですか。私はまだこの屋敷もぜんぜん見て回っていなくて」
「仕事、忙しそうだもんな。帰ってくるのいつも夜の十二時くらいだろ?」
「そうですね。でも日付はほとんど越えませんし。それほどではありませんよ。高耶さんはこの家はもう探険済みですか?」
 そう聞くと、高耶は「ああ」と頷く。
「だいたいは。なあ、庭のもう少し先にでかい池があってさ、鯉がいるんだ。それ見に行こうぜ」
「鯉ですか?」
「そう。この間、餌やったんだぜ。でっかいからさ、食うときすっげー迫力でさ」
 高耶の目が輝いている。
 鯉の餌やりなんて、いつぶりかなんてもう覚えていない。だが、たまにはそういうのもいいかもしれない。
「ちょっと待ってろ。餌もらってくる」
 高耶はそう言って、近くの縁側から靴を脱いであがり、あっという間に屋敷の中に駆け込んでいった。
 なるほど。屋敷の内部も、おおよそ探険済みらしい。
 ほどなく鯉の餌が入ったビニール袋を持った高耶が戻ってくる。
「行こうぜ」
 高耶の案内で、庭を横切っていく。
 少しずつ、明け透けな表情を見せてくれるようになっている気がする。打ち解けてきてくれているのだろうか。
 餌袋を持っていそいそと池に向かう彼は、十八歳という歳にしては無邪気なところが見え隠れし、直江は微笑ましく思いながら、庭石で足元が不安定なところを彼に遅れないようについていく。
 ほどなくして着いた池は、この屋敷の庭の中でもひときわ大きく、池を覗くと赤や白、金など色鮮やかな鯉が悠々と泳いでいる。
「すっげ。やっぱでかい」
 高耶が池に向かって餌を投げ入れると、餌をめぐって鯉が一斉に寄ってくる。直江も高耶に餌をもらって、同じように池に放ってやる。
 バシャリ、バシャリ。
鯉たちが大きな体を揺らしながら、水しぶきをあげ、水面に浮いた餌を飲み込む姿は、なかなか迫力がある。
「なあ、この鯉って食えるの? や、こんなん高そうだから食わないけどさ」
 高耶が餌をやりながら、直江にそう尋ねてくる。
「さあ。食べられないことはないでしょうが。ああ、でも錦鯉はおいしくないと聞いたことはありますね。食べる鯉は色の付いていない黒っぽいやつで。まあ、本当かどうかは私もよくわかりませんが」
「そうか……」
 少し残念そうにしているのが笑いを誘う。
 最初にあった、こんなに歳の離れた彼と話す話題に困りそうだという心配は、とうの昔にどこかに消え失せてしまっていた。
 なぜだろう。さっきから彼を見ていると、全然飽きない。
「なんだよ。ガキくさいって思ってんだろ」
 ふいっと顔を反らす。
 微笑んでいたのを勘違いされたらしい。
 違う、と否定しようとしていたときだった。
 ふいに座る高耶の体が、ビクンッと大きく跳ねた。
「どうし……」
 どうしたのだと声を掛けようとして、直江はぎくりとした。
 高耶が目を大きく見開き、その高耶の体がわずかに発光しているように見えたのだ。
 そんなはずはない。すぐさまその考えを否定した。人間が光るなんて正気の沙汰ではないし、ましてや今は昼間だ。発光などよほどの光量でなければ見えるはずもない。
 そうわずかな間で直江が思考を巡らせた直後、突然足下がぐらりと動いた。
(地震!)
 最初の衝撃から、すぐに横揺れが始まる。
 庭石の上では足下が危うく、直江はとっさに高耶の手を掴んで少し池から離れ、転ばないように肩を抱え込んで一緒に地面にしゃがみこんだ。
 池の水が波打ち大きな音を立てる。鯉たちも驚いたようにうごめいているのがわかった。
 長い時間のように感じたが、実際のところ一分もなかっただろう。徐々に揺れは収まり、直江はほっと息をついた。
 少し大きめの地震だった。震度五近くはあったかもしれない。
 直江は傍らの高耶に声をかける。
「高耶さん、大丈夫ですか」
 高耶の顔を覗き込むと、目の焦点が合っておらず、茫然とした様子だった。だが、彼の黒い瞳に自分の影が映り込むと、そこではじめて高耶がわずかに身じろいだ。
「あ、……なお、え?」
 しだいに焦点が定まり、高耶が直江の姿を認めたのがわかった。
「大丈夫ですか? もしかして地震、苦手ですか?」
「いや、……そうじゃない。オレ……」
 高耶が額に自分の手をあて、何度か瞬きを繰り返す。額に薄く汗がにじんでいる。まるで悪い夢から覚めたあとのようだ。
 心配になり、高耶の額に手を伸ばそうとしたところで、廊下をバタバタとこちらへ駆けてくる足音がした。
「おおい。ちょっとでかい地震だったな。何ともないか?」
 千秋と心配顔の八海が廊下から顔を出した。
「こちらは大丈夫だ。特に何もない」
「そうか。今、ほかのやつらが屋敷内の点検に回ってる。まあ、多少物が落ちた程度だと思うけどな。おい、高耶?」
 直江の傍で動かない高耶に気づいて千秋が声を掛ける。高耶はまだ少し青い顔をあげ、答えるが、その表情は硬い。
「あ、ああ。オレも平気だ。ちょっとびっくりしただけだ」
「……ならいい」
「高耶さん、無理しないで。少し休んだ方がよさそうです」
 高耶をゆっくり立ち上がらせて、直江は庭に下りてきた八海に彼を任せる。高耶はそれに素直に従って、八海の案内で、屋敷の奥へと入っていった。
 貧血かもしれない。大事ないといいのだが。
 心配になり直江が後を追おうとすると、「なあ」と千秋が呼びとめてきた。なんだと振り返ると、千秋が物言いたげな顔でこちらを見ている。
「直江、あいつ、何かおかしなところなかったか?」
 一瞬、質問の意味を取り損ねて直江は眉根を寄せた。少し間を置いて直江は、
「いや、特になにも」
と首を振った。
 その答えに千秋は視線を外し「そっか」と小さくつぶやく。
「何かあるのか?」
「いや、ないならないに越したことはないんだ」
 そういつかも聞いたようなセリフを言って、千秋は直江に背を向けて屋敷の方へもどっていく。
(言うべきだったのだろうか)
 去っていく千秋の背中を目で追いながら、直江は自問した。
地震が起こる直前、高耶の体が発光したように見えたこと。
 そして……

――覗き込んだ高耶の瞳が、真紅色に輝いていたこと。

 いや、と首を振る。
 常識的に考えれば、人間にそんな現象は起こりえない。自分の見間違えに違いない。ならば、それをいちいち他人に言うほどのことでもない。
 どうしたのだろう。慣れない生活でいつの間にか疲れをためていたのだろうか。
 直江は、自分に苦笑して、高耶が置いていったわずかに残った鯉の餌を、池に無造作に投げ入れた。