Red Moon 1

 葉の先がわずかに色づき、頬をなでる風は次の季節の気配を含んでいる。
 住居の敷地内と思えぬ木々が鬱蒼と茂った道を、一台の重厚な黒塗りの車が走り抜けた。黒光りするボディは鏡のように景色を映しながら、やがて立派な純和風の玄関を構えた家屋の前で止まる。
 運転席からすべり出た男が素早く後部座席に周りドアを恭しくあければ、中からダークカラーのシングルスーツを身にまとった長身の男が降り立った。
 鳶色をしたその瞳をはじめ、日本人にしては目鼻立ちの隆起がはっきりしているその男は、言い寄られることが絶えないその容姿に「不機嫌」を潔く表したくっきりと深い皺を眉根に刻んでいる。
 車の音に、家屋から何人かの人間が男を出迎えに外に出てきた。
 最初に出てきたのは、派手めのシャツに茶色で長めの髪を肩に垂らした、この落ち着いた和の風情になんとも似合わない飄々とした男だ。
車から降り立った男よりも若い。
「よう。着いたか。どうだ? 立派な家だろう」
 若い男がくだけた口調で話しかけてくる。その言葉に男はさらに皺を深くした。
「立派かどうかはどうでもいい。私はここに住まねばならないなんて聞いていない」
「まあまあ。仮にもご当主様ですから」
「こんなところからでは仕事にも不便だ。まったくなんだって私がこんな……」
 普段なら滅多にしない舌打ちをしそうになり、男はさすがにそれは飲み込んだ。
「遠路、お疲れでございましょう。どうぞ中へお入りください」
 派手なシャツの向こうから、今度は落ち着いた壮年の男性が言葉をかけてくる。確かに、何も玄関先で話すこともないと男はその言葉に従うことにした。



 玄関をあがって磨きこまれた木の床を案内に従って歩き、やがて大きな座敷に通された。
 華美なところは一切ないが、それでも重厚な柱の重みや控え目に施された欄間や柱のあちこちに配された金具は、おそらくはそれだけでもかなりの価値があるように思えた。
 上座の席に通され、やがて涼やかな香りの煎茶が運ばれてくる。
「私はこの家の家宰を務めさせていただいております、八海と申します。何なりとお申し付けくださいませ。旦那様」
 先ほどの壮年の男性が手をついて丁寧に頭を下げるのを、「旦那様」と呼ばれた男は、少し苦笑いしながら応えた。

「旦那様、は立派すぎて居心地が悪い。何かほかの呼び方はありませんか」
 それに八海はやわらかい笑みを浮かべて答えた。
「それはおいおい慣れてくださいませ。それから、私どもへお話しになる際は、丁寧なお言葉でなくて結構でございます。旦那様がこのお屋敷にて気持ちよくお過ごしになられるよう心を尽くしてまいりますので、ご遠慮なくいろいろとお申し付けください」
 男は苦笑した。
「……わかった。慣れるようにしよう」
「それでは、私は夕餉の支度をしてまいります。今しばらくお時間がございますので、どうぞごゆっくりおくつろぎください」
 八海を見送ると、今度は派手なシャツの男――千秋が、よっと腰を上げた。
「俺もちょっと用が残ってるから、それ片付けてくるぜ。旦那は好きにしてな」
 途端に静かになった部屋にひとり取り残され、男はやれやれと目の前の茶碗を手に取った。



 母方の家「直江」の大伯父に呼び出されたのは、つい二月前のことだ。
 年に一度顔合わせるか合わせないかの特に慣れ親しんだ覚えのない人物からの呼び出しで、何事かと思えば、「直江家を継いでくれ」というものだった。
 ずいぶん唐突な話だと目を丸くしたが、話を聞けば明治大正から続く直江の家がしきっていた会社の羽振りが振るわないのだという。遅かれ早かれ、潰れるかどこかの会社に吸収されるのが目に見えている。
 それを若いながらも実兄の経営する会社で手腕をふるっていた自分を迎え入れ、会社を立て直してほしい、とまあそういう話だった。
 突然の話に驚きはしたが、直江の会社を調べてみれば、確かに業績は決してよいとは言い難かったが、それでもすでに行われている多くの事業は興味深かった。
 いくつかの改善点を見出したが、そこさえ修正すれば持ち直すだろうと思われた。兄や両親からも快い返事をもらい、結局会社を請け負うことになった。
 と、そこまではよかった。
 その旨を大伯父に話すと、彼は大層喜び一枚の紙を取り出した。その紙を見てぎょっとした。養子縁組を届ける書類だったからだ。
 「直江を継ぐ」という話は聞いていたが、あくまで会社のことだろうと思っていたが、甘かった。
旧家の古いしきたりを引きずり血縁者でなければ役員になれないような会社だから、社長になるには直江の養子になる必要がある、とそう説明された。
 渋面になった自分の手をとり、大伯父は涙をこぼさんばかりに嘆願した。面倒なことになったと心の中で盛大に溜息をついたが、結局は首を縦に振り書類に判を押すこととなった。
 そうして、やや不本意ながら、直江家本家の当代当主である大伯父の籍に入ることで、新しい「直江家の当主」となったわけだが……
(当主だから本家に住め、とまでは聞いていなかった)
 直江の会社を引き継ぐ準備を始めたころ、その話を聞かされた。
 先に言っておいてほしかった、と思う。
 それを聞いたからと言って直江を継ぐ話を断るつもりなどないが、これまで独身を謳歌し、自由気ままにやってきた自分には窮屈以外のなにものでもない。まあ、いずれ落ち着いた頃にそんな慣習など変えるつもりなのだが。
 そう思い、今まで住んでいたマンションの部屋も解約していない。
(暇だな)
 ここに来ることを知らされてから、急いで仕事の日程を調整し、今日のために丸一日空けてきた。火急の用が発生すれば携帯電話に連絡が入ることになっているが、今のところ鳴る気配はない。
 ふと、窓の外に目をやると、見事な日本庭園が広がっている。
 普段は忙しない日々に追われ、特に景色を眺めることもないが、ほかにすることもなく直江は庭におりてみることにした。
 都合良く今日はいい天気だ。
 縁に出ててみると、ちょうどよく履物が置かれている。それを拝借して直江は苔むす庭に降り立った。



 常緑の松に色づき始めた楓、池には見事な鯉がゆうゆうと泳ぎ、見上げた空は秋の装いで薄く白い雲がたなびいている。庭の造りについてはとんと専門外だが、それでもこの庭がよく手入れされ、美しいものであることは直江にもわかった。
 マンションの一室からこの立派な庭付きの日本家屋では、どうも違う世界にきてしまったような気になる。
 馴染むのには少し時間がかかりそうだ。
 木が他より多く生い茂っているところに足を向けた途端、人影が見えた気がして、直江はふと足を止めた。
(この家の使用人だろうか)
 正直不本意ではあるが、どうやら自分は今日からここに世話になるらしい。だから挨拶くらいしておこうと足を踏み出し、
「あの……」
と、声をかけたところで、その人影が振り返った。
 その瞬間直江はどきりとし、体を硬直させた。
 振り返ったその人物は、直江の予想よりはるかに若く、まだ二十歳そこそこに見えた。
 飾り気のない半袖のTシャツ一枚に、ブルージーンズを身につけ、そして、いまどき希少価値の高い一度も染めたことのないだろう黒髪。
 青年は、直江の姿に少し驚いたように、目を見張ってこちらを見てきた。
 その漆黒のゆるぎない瞳に、直江は思わず一瞬虚をつかれた。
「誰だ?」
 青年の発したいぶかしげな声に、我に戻る。
「橘義明と言います。今日からこちらでお世話になることになりました」
「橘……」
 かすかに首を傾げる。そのしぐさに、まだ少年のような幼さが見える。
 やがて、ああ、と思い出したようにうなずいた。
「直江、だろ? あんたが今度のご当主様?」
「ええ。そうです。継いだのがつい先日なので、まだその名前に馴染みがないのですが」
「そっか。なんだ。すっげーびっくりした。オレ、ご当主っていうから、どんなじいさんがくるかと思ってた。じいさんじゃなくてもおっさんかなーって」
 青年の言葉づかいは、先ほどの八海やそのほかの家の者と違い(千秋は論外なので、この際除くが)、いくぶん乱暴なものだったが、不思議と不快な気持にはならなかった。
「オレが想像してたのと全然違う。すごいな、若くてご当主様ってすごいんだろ?」
 直江は苦笑しながら答えた。
「さあ、どうでしょうか。ところであなたは? このお屋敷の人ですか?」
「オレ? ああ。一応そうかな。そっか。あんたがオレのご主人様か」
「は?」
 今、ちょっと時代錯誤な、いや、逆に今流行っている方のものか、いずれにしてもこの場にはちょっと不釣り合いな単語が聞こえた気がするのだが。
 と、そこへ、
「高耶ぁー! どこー!」
 遠くから若い女の声が聞こえてきた。 「あ、やべ。ねえさんだ。じゃあ、またなご主人様」
「あ……」  直江は、一目散に声のした方に走っていく青年の後ろ姿を見送った。
(結局どこの誰だか、名前も聞かなかったな)
と、気づいたのはその姿も見えなくなってからだ。
 ずいぶん不思議な人物だったのではないかと思う。
 この立派な屋敷にあって、言葉づかいもまったく飾るところがなく、服装もTシャツ一枚にデニムとずいぶんラフな格好をしていた。
 屋敷内で働く誰かの息子か何かだろうか。
 そう考えていたところに、今度は直江を呼ぶ声がした。そちらを振り返ると、千秋がこちらに向かって歩いてきているところだった。
「よう。探したぜ。ここの家の庭は無駄に広いからな。今度から出ていくときにゃ、ケータイ持っててくれ。家の中でも探すのに一苦労だ」
「そうだな。今度からそうしよう」
 直江はうなずいた。確かにここではその必要がありそうだ。
「どうだ。なんか面白いもんでも見つけたか」
「いや、……ああ、先ほどひとり青年を見かけた」
「ん?」
「名前を聞きそびれたんだが、たぶん二十歳ぐらいだったと思う。この屋敷にいるにはちょっと変わった感じだったが、屋敷の中の誰かの子か?」
 直江が千秋に尋ねると、なぜだか千秋はふと変な笑みを浮かべている。
「なんだ? 何か変なことでも言ったか?」
 普通のなんということもない質問だと思ったのだが、違ったのだろうか。
「いんや? まあ、それは後のお楽しみってことで」
「何だそれは」
 何かもったいぶるような話なのか?
 いぶかしげに首を傾げるが、千秋はへらり、と笑ってそれ以上は何も話さない。
「まあまあ。そうだ。飯だ。飯。それでわざわざ俺様が呼びに来てやったんだった。ほら、冷める前にいくぞ」
 そう言ってさっさと背を向けて行ってしまう千秋に、直江は仕方なくついていった。
 どうも腑に落ちないことばかりだ。
(先が思いやられるな)
 直江は少々暗澹たる気持ちになり、そっとひとつ息を吐き出した。