それでもまたあなたに恋をする

合同誌「ラブミラ3~病院特集~」で書いた「再発性恋愛」のおまけ話です。地域にただひとつしかない診療所に赴任してきた医師・直江と診療所の看護師・高耶さんの話、その後です。この話単独でも読めます。
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「見つけた」

 突然後ろから聞こえてきた声に、高耶はぎくりと体を硬直させた。
 すぐに脳裏に描いた声の主の姿を、まさかそんなはずはない、と瞬時に打ち消した。それでも同時に、自分がその声を聞き間違えるはずがないことと、あの男ならここに現れても不思議ではないこともわかっていた。
 ひとつため息を吐いて、振り返った。
「直江」
 思ったとおりの人物がいた。
 やはり、という思いが心をよぎる。
「……よく見つけたな」
「探しましたから」
 男は顔も声も無表情で、怒っているのか、悲しんでいるのか、どんな想いでそこに立っているのかはわからない。

 立ちつくす二人のそばを、数人がとおり過ぎていく。
 みな、直江の顔にちらりと視線をおくり、わずかに目を見開く。
 以前は真っ白だったはずの建物の壁は、今では古びて薄く濁った色をしている。よく清掃されて塵ひとつない廊下も随分すり減っていて、色がまだら模様のようだ。加えて、今日の空は朝からどんよりと厚い雲が覆われていた。
 そんな、冴えない風景の中に、そこだけ焦点が合ったかのように、目の前の男は立っている。顔立ちの端正さだけではない。ただそこにいるだけで、人の視線を集めて魅了するような力を持っている、それが直江だ。

 ふと、高耶の着る白衣のポケットの中でポケベルが鳴った。
「呼ばれた。行かないと」
 高耶が直江に背を向けようとすると、がしっと腕を掴まれた。
「逃がさない」
 男の眼が、高耶を射抜いてくる。高耶はまたひとつため息をついた。
「逃げねえよ。仕事今日夕方までだ。終わったら連絡する」
「ここで待ちます」
「馬鹿言え。おまえ目立つんだよ。おまえのこと知ってる人間もいるかもしれない。見つかったら説明が面倒だろ。仕事場見つけられちまったんだ。逃げようもないだろ」
 高耶の言葉に、直江はこちらをうかがうように見てきたが、やがてうなずいた。
「……わかりました。私の携帯番号、渡しておきます」
「携帯変わってないんだったら必要ない。覚えてる」
 そう。直江の番号ごと携帯を捨てても、結局、頭が忘れてくれなかった。
「そのままです。では、お待ちしています」
「ああ」
 潔く去っていく男の大きな背中を見送って、高耶は医局に戻った。

 慌ただしく仕事を終え、夕方更衣室で看護師の制服を着替えていると、夜勤前に一休みしている同僚に声を掛けられた。
「よう、さっきえらくいい男としゃべってたな。知り合い?」
「いや、入院の見舞い客だ。病室を尋ねられたから答えてただけだ」
「ふーん」
 ちょっとした嘘なら、ごく普通につける、もうそんな歳になった。
「お疲れ様」とバッグを持って更衣室を出る。結局今日は最後まで晴れなかった。夕焼けらしい夕焼けもなく、そのまま夜になりそうだ。
 高耶は、今日何度目かになるため息を吐いて、携帯を取り出した。

 直江とは、高耶がまだ学生だった頃に夜の街で出会った。そのときは、お互い結構最悪な別れ方をして、数年後、過疎化が進む村にある唯一の診療所の、唯一の医者と唯一の看護師として再会した。誤解を乗り越えて、ふたりは恋人になった。
あれからもう十年近くになる。その間に三回別れて、三回よりを戻した。
 一回目は、直江が都内の大学病院に移ることが決まったとき。離れることが耐えられなくて、高耶から別れを告げた。
 二回目は、それでもお互い忘れられなくて遠距離恋愛をすることになったのはいいが、結局、想いばかりが募って会えない苦しさに、別れることになった。
 三回目のときは、村の人の勧めで高耶が見合いをすることになり、それをどこでどう聞いたのか直江がやってきて、ものの見事に見合い話を壊してくれ、それで大喧嘩をした結果、なぜだか元鞘に戻っていた。
 四回目の別れを高耶が宣言したのが二ヶ月前。今度は直江の方に結婚話が持ち上がった。その頃、直江は移った大学病院でその技術力とタフさで、派閥を軽く乗り越えて、次期准教授の座を射止めてしまっていた。そんな直江の輝かしい未来を自分のせいでつぶすわけにいかないと思った高耶が、電話一本で別れを告げ、追ってこられないようにと、村の診療所を辞めて遠い地方の総合病院に移ったのだ。
 携帯も捨てたし、自分の後任で村の診療所を引き継いだ妹の美弥にも、ときどき電話をする代わりに、居場所を一切知らせていなかった。

――プルルップルルッ
 無機質な電話の呼び出し音がわずか二回鳴ったところで、相手が出る。
「直江? オレ。仕事終わった。どこだ?」
「病院の駐車場にいます」
「わかった」
 駐車場に向かうと、シルバーに輝く車体の大きな外車にもたれて立つ男が目に入る。やっぱり目立ちすぎる。
「お疲れ様です」
 直江は、助手席のドアを開けて、高耶を促した。
 高耶が乗り込むと、静かにドアが閉められる。ベージュ色の本革張りのシートが、高耶の疲れた体を包み込んだ。
 直江がハンドルを操り、車はゆるやかに病院の駐車場を出る。
「食事、何か食べたいもの、ありますか?」
「あまり脂っこくないものだったらなんでも。こっち来てあんまりたってないから、飯食うところもまだよく知らねえんだ」
「では、任せてもらっても?」
「ああ」
 直江はそのまま車を走らせて、普通の民家が立ち並ぶ道沿いに、一軒だけ看板が出ている店の前に止まった。

 猫の額ほどの庭を抜けて格子戸を引くと、木造りのカウンターと、半個室が二つ程度あるこじんまりとした雰囲気のいい和風の店だった。部屋の片方に案内されて、渡された温かいお絞りで手をぬぐいながらメニューを見ると、一般的なお造りや焼き物などのほかに、創作系のものがいくつか並んでいる。
 今日のお薦め料理、というラインナップからいくつかと、珍しい名前のメニューを二三、注文して、すぐに出てきた瓶ビールをグラスに注いで、二人で小さく乾杯した。
「変だな、オレたち」
 別れた者同士が、こうやって何事もなかったかのように酒を飲む。すると、グラスに口をつけたまま、直江がひょいっと片方の眉を上げた。
「私は別れたつもりはありませんが?」
「……」
 確かに、高耶が一方的に振り切って逃げただけで、直江がうんと言ったわけではない。言ったわけではないが……。どう言ったものかと、高耶が迷っていると、湯気を立てた料理が運ばれてきた。
「とりあえず、その話は置いておいて、食べましょうか」
 直江が取り分けてくれたものを口に運ぶ。一口、口にしたところで、高耶は驚きに声を上げた。
「うまい」
「そうですか? 良かった」
 向かい側で直江が微笑む。久々に見る、直江のその表情に体温がふっと上がる。
 直江はこのあたりには来たことなどないはずで、おそらくここに来る前に店をあれこれ調べてきたのだろう。そういうところが、直江らしい。
 そのあとの食事は、互いの近況とか、美弥から聞いた村のこととか、そんな取り留めのない話をした。
 話ながらの食事の間に、高耶が苦手なものを直江が当たり前のように取って自分の皿に置き、代わりに、高耶の好物を直江の皿から寄こしてくる。いちいち「ありがとう」も「どういたしまして」も言わない。けれど、こんな直江の心遣いに自分が今も大事にされて、想われていることを感じとって、高耶はせつない気持ちになった。

 食事が終わると、直江がいつのまにか会計を済ませていて、二人で店を出た。直江が呑んだのは最初の小さなグラス一杯のビールだけだったが、念のためと、二人並んで酔い覚ましに夜の町を散歩することにした。
 街灯も少なく、ときどき通る車のヘッドライトが道を照らしている。
「高耶さん」
 ふいに名前を呼ばれて、直江の方を見ると片手をとられて、その手に直江が何か物を置いた。ひやりとした小さなそれが、暗がりのなかでも何かははっきりとわかった。
 鍵だ。
 直江の部屋の。高耶が二ケ月前、封筒に入れて直江に郵送した……
「……オレは、もうこれは……」
「持っていてください。それはあなたのものですから」
「オレなんかじゃなくて、これ持つのにふさわしい人はいるだろう」
「あなたではない人が? どこにいるんです?」
「直江……」
「いませんよ。あなたが私の唯一無二のパートナーなんです。誰にもその代わりはできない」
 高耶は銀色に光るそれを、じっと見つめる。
 これを手放すとき、あんなにもう直江には会わないと覚悟をしたはずなのに、こうしてまた自分の手に戻ってきたことを、どこか嬉しく、ほっとした気持ちでいる自分がいる。
「さて、今日のところはこれで帰ります。自宅までお送りします。」
 え? と、高耶ははじかれたように顔を上げる。
「帰るって、おまえ、これから? 車で都内まで何時間かかるんだよ。仕事は?」
「明日まで休みをもらっていますから、大丈夫です」
 直江の大きな手が、そっと高耶の冷えた頬に当てられる。びくり、として直江を見上げると男は微笑んでいた。

「今日は、何もしません。鍵を渡しにきただけです。待ってますから。あなたが私と一緒に歩くことを決めてくれるのを」
「直江……」
 高耶は、言葉が見つからずにうつむいた。
 と、急に腕を引かれてどっと男の胸に倒れ込む。
「な、何?」
 顔を上げた瞬間、直江の顔が近付いてきて、あっと思う間もなく口づけられた。
「んんっ!」
 しかも、そのキスはとんでもなくディープで、高耶はじたばたと抵抗をするも、やがて抗っていた手は直江の首に絡んでいく。
 直江がようやく解放したときには、高耶はもう半ば腰が砕けていて、肩で息をしなくてはならないような有様だった。
「ちょ、おまえ、何もしねえって、今言ったばっかだろ!」
「このくらい許してください。これでもやせ我慢してるんですから」
 そう言って苦笑する目の前の男の顔には、十年前より笑い皺の数が増えている。
 それだけの時間が自分たちの間に流れたのだ。
 そばにいるときは日々が精いっぱいで、時が流れていくことに気を止めることもなかったけれど。あっという間だった気がする。
 でも、思い起こせば直江とのたくさんの思い出が、とめどもなく溢れだしてくる。二人でたくさん笑った。抱き合って体温を分け合った。喧嘩もいっぱいした。悔しさや悲しさで、何度も涙をこぼした。
 こんなに感情を交わし合った人間はいない。
 こんなに愛した人間はいない。
 それは、今までも、そしてこれからもきっと変わらない。

 再発性の恋愛。
「一度かかっちまうとな、治んねえんだな、これ」
「何の話です?」
 考えていたことが思わず口に出していたらしい。高耶は苦笑して、「なんでもない」と首を振った。
 もうこれ以上、一緒にはいられないと何度も思った。そして、何度も直江と離れた。
 それでもまた、自分はこの男に恋をするのだ。
 あきれるほどに。
 何度も。
 何度でも。

――愛してる。
 まだ残った矜持が邪魔して言えない言葉を、心の中でそっと呟く。
 高耶は、自分の体温をもらって、手の中で温かくなった鍵を握りしめた。

 見上げた空に、ひときわ美しい星たちが輝いていた。


fin.