花の行方


     一


 山城の国に都があったころ。
 都の中央には都を貫く朱雀大路が、羅生門から大内裏に向けて走る。碁盤の目のごとく道が走り、空を飛ぶ鳥の目にはさぞ壮観なことだろう。
 さて、その都から少し南に下っていくところの、宇治にて。


 晴れ上がった空の下、右大臣家別邸の東の対にて、二人の男のうちの一方がもう一方に向かって、うんざりしたような口調で声を掛けていた。
「いい加減にしろよ、旦那」
床に寝そべって、ため息とともにそんなセリフを吐いた男は、さらりとまっすぐに伸びた髪をきれいに結い上げ、それに烏帽子を被っている。着ているのは季節に合わせた表が白で裏が鮮やかな緑の柳の襲で、とてもうまく着こなしている。
 彼を都の人々は「千秋」と呼ぶ。本名は安田長秀というが、そちらの名で彼を呼ぶ人はごく身近なものたちばかりで、「千秋」といったほうが通りはいい。
 涼やかで整った容姿は、若い女性たちを引き付けてやまないのだが、今はその眉間にくっきりしわを寄せている。それというのも、彼の目の前にいる男のせいだ。
「旦那」と呼ばれた男は、文机に向かい、淡く色のついた薄い紙になにやらいそいそと書き物をしている。またどこぞの女に文を書いているのだ。
 やがて、ことりと筆を置くと、その紙を軽く持ち上げて出来ばえを確認する。
「よし。これでいい」
満足げにうなずき、墨が乾くのを待っている男の姿に、千秋はまたもため息をつく。
「ほんっとに凝りねえな、てめえはよ。こんな田舎に来ても都にいるときのやってることが変わんねえってのは一体なんなんだ、直江」
名を呼ばれて、男は振り返る。
 直江も同じく本名ではない。名は橘義明。今をときめく右大臣家の三男である。
 少し色素の薄い髪に、とび色の瞳。都の女性たちをおとなしくさせない自他共に認める遊び人である。
 直江と千秋の付き合いは古く、千秋を本名の方で呼ぶ限られた人の中に直江も入っている。
「美しい花を愛でたいと思うのは、人の性だろう、長秀」
「はあ? お前とその他の一般人を一緒にすんじゃねえ。っつーか、美しいかどうかなんて、顔見てねえのにわかるかってんだよ。どあほ」
「おまえ、少しは口の悪いのを直したほうがいいぞ」
「おまえは、下半身を直せ。いや、もう無理か……って聞いちゃいねえ!」
直江は千秋の言葉に特に気分を害した様子もなく(というか聞いてない)、「八海いるか」と家人を呼ぶと、花のついた枝に先ほどの薄紙を結びつけて、それをとある所に届けるよう指示した。
 一連の直江の行動を見て、千秋はもう一度盛大にため息をついた。
「嗚呼、こんな大人にゃ、なりたくねえ」
「何か言ったか、長秀」
「……言うだけ無駄だと思うから言わねえ」
「そうか。人生は長くない。無駄なことに時間を使うのは良くないな」
何かを言う気もすっかり失せて、千秋は目の前の干菓子をつまみ、ごろりと寝そべった。


 直江、こと橘義明は今年二十八歳を迎えたが、夜をともに過ごす女は数知れずいるものの、決まった妻というのは今のところない。この年齢で珍しいことだといえるが、実は、直江は一、二年ほど前まで僧侶の身だった。
 今でこそ、直江の父は右大臣だが、彼自身末っ子で本来なら将来的に大きな役につくとは周りも本人も思っていなかった。ところが、幸か不幸か、彼の上の男兄弟が次々に流行り病で病死してしまったのだ。そうして直江の父は押し上げられる形で、あれよあれよという間に昇進し、右大臣まで昇り詰めてしまった。それが、直江が二十の半ばの頃である。
 そんなことになる前、直江は名門橘氏の一族とはいえ、末っ子の末っ子であり、将来まともなお役につけると思えなかったので、僧籍に入っていた。こういうことは、ごく普通にあったことで、直江だけの特別な話ではない。
 しかし、特別だったのはその後で、父が右大臣になり、彼の息子である直江に還俗(一度出家したものが俗世に戻ってくること)を期待する動きが出てきたのだ。
 長男の照弘は既に大納言になっていた。次兄は直江と同じく僧籍にあり、しかし彼は頑として還俗することを拒んでいた。そうなってくると、三男の直江への期待が大きくなっていき、始めは直江をいまさら還俗させるつもりもなかった父右大臣も、そうも言っていられなくなり、ついには直江に戻ってきてくれるよう頭を下げたのだった。
 白髪の混じり始めた父に頭を下げられては、直江もいいえとは言えない。しかも、直江は特に僧籍に執着があったわけではなかったので、還俗するにいたったのだった。
 髪を結い上げられる程度に伸ばしている期間の猛勉強のおかげで、いざ、宮中に参内しても、誰にも引け劣らぬ貴公子ぶりで、その日のうちに宮中の女達を虜にし、帝自身もいたく彼をお気に召された、という次第だった。


 還俗してからというもの、直江の色恋に関わる噂は絶えなかった。
 今、直江がこんな宇治の山荘なぞにいるのも、とあるお大臣の北の方(第一夫人)との不倫疑惑が発生したためで、その噂が消えるまでお籠もり中というわけだ。
 その噂の真相など、千秋は知ったこっちゃないと思う。直江なら在り得る話だと思うし、もし嘘でも日頃の行いのせいなのだから、自業自得だ。
 千秋は直江と幼い頃から親交があったので、今回の噂で同僚や女達に、直江のことをいろりろ探りを入れられて、正直辟易しているところだ。
(にもかかわらず……。)
千秋は、恨めしそうに目の前の男をねめつける。当の本人は、いたって涼しそうな顔をして、またどこぞの女に手紙を書いている。


   二


 それから、十日程して千秋は再び直江のいる別荘を訪れた。千秋とて、こうもしょっちゅう直江の顔を見に行きたいわけでもないのだが、直江の父親である右大臣から「息子の様子を見て来てくれ」と頼まれては、嫌とはいえない。
 自分で行けばいいだろう、と思ったけれど、右大臣もお忙しい身の上であるので、そこは察してこうして来ているわけである。
 本人はそう言われることに過剰なまでの拒否を示すが、ようは「人がいい」のである。
 廊下の板を踏みしめつつ、部屋の中に入ると、主は脇息にもたれかかって、溜息をついている。
「なんだ?どうした」
いつもとは少し違う様子に、千秋は直江に声を掛けた。すると
「返事が来ない」
と、ぼそりという。
「は?」
何のことだと千秋が首をかしげると、
「しばらく前から、ここの近くの屋敷にいるという噂の姫君に手紙をたびたび送っているのだが、その返事がまったくない」
「噂の姫君、ねえ」
「何か一言くらいあってもいいと思うんだが。うんともすんともない。今までこんなことなかった」
「はあ……、左様で」
最初は笑ってやろうと思った千秋だったが、当人が至極真剣な顔してそういったものだから、笑うに笑えなくなってしまった。
(本当にいったい何なんだよ。こいつは)
とは、口には出さない。代わりに、とりあえずの慰めの言葉をかけてみた。
「そのお姫さんがどんな人か知らねえけど、もしかしたら都の人じゃなくて、慣れないことでとまどってたりするんじゃねえの?」
なんで、宇治くんだりまで来て直江の慰め役なぞしているのだろう、と思う千秋だった。
 直江のほうは、眉間に軽くしわを寄せながら、考え込んでしまっている。
 千秋の経験からすると、直江の考え込んだ先に起こす行動は、あまりよろしくない場合が多い。今回も何かしでかしそうだな、と脱力気味に、千秋は思った。
 そして念のため、言っておく。
「直江、人の道を生きろよ」
自分がそう言ったからといって、何がどうなるとも思えないが……。
 実際のところ、直江は千秋の言葉に相槌も打たずに、何やら考えている。
(……右大臣の親父さんになんて報告しよう)
と千秋もまた、考え込みはじめていた。


 ある月の明るい晩。直江は噂の姫君がいるという屋敷に忍び込むという行動に出た。
 待てど暮らせど、返事をもらえないもどかしさに、こうして来てみたわけだ。
 千秋の「何かしでかすに違いない」という予想は大いに当たったわけだが、当たったところで本人とっては別に嬉しいものでもないだろう。
 月の光に手伝ってもらい、笛の音のする方へと向かっていく。笛の主が姫君ではないだろうか、と予測してこうして足を運んでいるわけだが、その笛がまたとても素晴らしい。これほどの音色はなかなか耳にすることはない。名手と呼んで全く差支えがなかろうと思われた。ますます、姫君への期待が高まりつつ、目的の部屋の前に至る。
 笛の主以外に、他の人の気配はない。
 直江は、慣れた様子で戸を開け、部屋の中に滑り込んだ。
 笛の音がぴたりとやんだ。
「誰?」
直江の衣擦れの音に、気づいたのか、几帳の向こうの影が揺れてそう声がした。
 思ったより低い声。
「声をお上げになられるよう。突然のご無礼をお許しください。幾度もお手紙を差し上げましたのに、歌のおひとつも頂けず、あなたへの想いが積もりに積もって、こうして無礼を承知で参りました」
 都の女達が一斉に参ってしまうというその美声で、几帳を隔てた主へ声を掛ける。
 何と返ってくるだろう。返ってこなかったら、この几帳の向こうに踏み込むまで、と直江は思いつつ相手の様子を伺う。
 すると、軽やかな衣擦れの音がして、
「妹に用だったのか」
と再び声がして、直江が「え?」と思うまもなく、几帳の向こう側から、痩身に桜襲の衣をまとった青年が姿を現した。
 はじめに目を奪われたのはその目。月明かりがあるとはいえ、夜の闇の中で、強い光をたたえるその瞳に直江は射抜かれたように、動けなくなった。
「あ、いえ……」
予想もしていなかった展開に、直江は不覚にもうまく言葉が出てこない。
 まっすぐこちらを見てくる目に、ますます動揺を誘われる。そんな直江の様子に、青年は少し首をかしげてこう言った。
「もしかして、あんた、最近よく文をくれる人?」
「え、ええ、まあ」
「そうか。いや、ここの屋敷にこの間まで妹がいたんだけど、あいつに文をくれてたんだよな。でも、あいつはこの間別の所に移ってしまって、もうここにはいないんだ。だから、あんたから貰う文は、人様のもんだし、そうそう捨てるわけにもいかないと思って、ついでがあるときに妹の所へもっていってもらってたんだ」
そうして、青年は悪かったな、とぺこりと頭を下げた。
 どうやら、彼は直江が文を送っていた姫君の兄のようだ。
 徐々に直江は自分を取り戻し始めた。それにしても、姫君を訪ねて忍んできたつもりが、本人はおらず、しかもその兄にそれが見つかってしまうというのは、大なり小なりばつの悪い思いをするものではと思われるのだが……。どういうわけか、一向にそういう気持ちが湧いてこない。
 それはきっとこの青年のせいだと直江は思う。見た様子、都の人間ではないようだが、その立ち振る舞いに、凛としたものを直江は感じ取っていた。
 それに、先程から目の前の青年は、妹君のもとに忍んで来た男を詰るわけでもなく、笑うでもなく、ただ純粋に気の毒なことをしてしまったという表情をしている。
 そんな彼の様子も直江に自分を取り戻させるのに、一役買った。直江は、表情を改めて笑みを浮かべながら、
「これはお恥ずかしいところをお見せしてしまった。この恋をどうやら天は応援してくださらぬらしい。ああでも、姫君にお会いできぬ代わりに、私はとても素晴らしい人に巡り会えたようですね」
 直江という男、立ち直ったら、その後はすらすらとそんな言葉が出てくる。
「素晴らしい人?」
直江の言葉に青年は首をかしげた。
「あなたのことですよ。あなたが几帳の向こうからお出でになったとき、あなたの涼やかな立ち姿に、桜の襲の衣がとてもよく似合っておられて、桜の王がその姿を現されたのだと思いましたよ」
 直江の言葉に青年は夜目にもかすかにわかる程度に顔を赤らめた。
「……あんた、よくそう恥ずかしいことをつらつらと」
「でも、本当のことですから」
「いや、そういう問題でも……」
青年は困ったように笑ったが、やがて何かを思い出したような素振りを見せ、そして今度は直江をじっと見詰めてきた。また軽く首をかしげて、こちらを見てくる。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。オレはさ、見ての通り田舎者で雅なことなんて、何にもわかんないんだけどさ。都の人ってのは、皆そんなに口がうまいもんなのか?」
女との睦言の中で「口がうまい」と言われたことは多々あるが、こんなにも素直に感心したように言われたのは初めてで、どう返したものだろうかと迷う。
 直江は困ったように笑って、話題を変えた。
「名前、教えていただいてもよろしいですか」
直江が言うと、青年は少し考えるような素振りを見せた。
「あ、いえ。無理にお聞きしたいわけではないので」
「あ、いや。そうじゃなくて……別に教えるのは構わない。高耶。オレの名前は高耶っていう。高いに、こう……」
高耶は、床に字を書いて見せた。
「高耶、さん。高耶さんですね」
直江は数回、今教えられた名前を口の中で転がした。
「素敵な名前ですね」
別にお世辞でなく本当にそう思った。目の前の青年によく似合う。自分の名前を褒められて、高耶は「そうか?」と、でも嬉しそうに笑った。その表情に目を奪われていると、今度は高耶がこちらの名前を聞いてきた。
「人は直江と呼びます。高耶さんもそちらで呼んでくださいね」
「直江さん?」
「はい。高耶さん」
直江がそう返事をすると、高耶は楽しそうに笑い声をこぼした。


 その夜以来、昼といわず、夜といわず、直江は高耶のいる邸の方に行ったり、こちらに招いたりして一緒にすごした。高耶は直江に都のことをいろいろ聞きたがり、直江の持つ書物にも興味を示した。
 高耶はなかなかの素養があり、文字は一通り読みこなした。詩(漢詩)を読み解くときにも、そこかしこに感性の良さが見受けられ、直江が素直に感心すると、高耶は謙遜してさらにいろいろ教えて欲しいといってきた。高耶の願いがあって、和歌などの教授もはじめた。
 中でも直江が一番驚いたのは、高耶が笛の名手だったことだ。あの月夜に忍んでいった晩、笛を奏でていたのはやはり高耶で、改めて聞かせてもらうと直江はその素晴らしさに、素直に感嘆した。高耶は謙遜していたが、その腕は宮中でも必ずや一目置かれるに違いないというほどだった。
 直江も他の貴族同様、一通りの楽器はこなしたが、あえてこれというなら筝で、高耶と合奏をするときもあった。
 ただ、お互いの身の上は明かすことはなかった。直江は高耶を都人ではないということを、高耶は直江を都の人だということを。ただそれだけを知っているだけだった。
 別に故意にそうしたわけでなく、ただ二人が時を過ごす上で、必要がなかったのだ。


 そんな日がひと月ほど続き……。
 しばらく天候の悪い日が続き、久しぶりに高耶の住まう邸に使いを出すと、高耶がいないという。驚いて、直江自身が邸のほうに行くと、家人がつい先日、車が来て彼を乗せてでていったというのである。
 どういうことなのかと、問い詰めてみても家人は高耶の行き先どころか、高耶の身の上、素性についても全く知らなかった。邸自体は、直江がその名に微かに聞き覚えのある程度のどこぞの宮様の持ち物らしい。そこにある日、高耶とその妹姫の身を一時置いてもらいたいという話が舞いこみ、彼らはこの三月ほどこの邸に身を寄せていたらしい。だが、彼らのことについては何も聞かされていなかったという。
 直江は、邸の持ち主である宮様を探し出し、問い合わせてみたが、その宮様はご老体で臥せりがちだというので、返事も全く要領を得ない。高耶を探す手立てがつき、ただ呆然とするしかなかった。


     三


 直江は傷心のあまり、都にまたしばらく帰らなかった。
「おーい。直江。いるか?」
 勝手知ったる他人の家。千秋は家人に軽く声をかけただけで、先導も当然のごとく付けずに、床を踏み鳴らしながら歩いていく。目的の部屋に入ると、だらりと寝そべった男の姿があった。
 千秋はさっさと部屋にあった円座を、拾ってどっかり腰を下ろした。
「旦那。生きてるか?」
千秋の声に、直江はゆっくり起き上がって、こっちを見た。少し痩せたな、と千秋は思った。いつも寸分の隙もなくきっちりと結い上げられた髪は、今日はほつれて頬にかかっている。着崩れた衣のまま、けだるげに脇息によりかかる姿は、いつもの直江とは全く違うものの、これはこれで女達が放ってはおかないだろう風情を漂わせている。
 起き上がりはしたものの、ボーっとしているのには変わりはない様子。
(おいおい、なんだ?恋煩いっかなにかか?)
千秋はものめずらしさに、しげしげと直江を観察してしまう。やがて、千秋のその不躾な視線に気づいた直江が、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。 「なんだ、長秀」
「なんだとはなんだ。随分な低落だな、直江」
「小言を言いに来たんだったら、聞きたくない」
そして、また視線を虚空に戻すと、これまたボーっとし始める。おいおい、と千秋は声には出さずにつっこんでいると、ふと目にとまったものがあった。
「なんだ、この文箱の山」
部屋の隅にいくつかでは済まない大量の漆塗りの文箱が、積み上げられている。箱を封じる紐に花や枝を添えられているのを見ると、それらは女達からのものだろうと察しがつく。しかし、それらはまだ開けられずに放っておかれているようで、積まれている箱の下のほうの花なぞは、とっくに萎れている。 「ご無沙汰しているからな。いろいろな方面から届くが、面倒くさくて仕方がない。たまに無視できない人からも来るから、それくらいは返事を書いているが」
千秋は少し目を見張る。いつもの直江なら、女関係だけでなく、交友関係においてはとてもそつなくこなしているはずだった。
「で? おまえは何の用だ」
「これ届けに来たんだ」
千秋は持ってきた文箱を直江の前に置いた。直江はうんざりしたように、ため息をついた。
「もう、いらない」
「って、いらないじゃねえっての。主上からだ」
「主上?」
さすがの直江も帝からの手紙とあっては無視できない。千秋から文箱を受け取ると(ただし、しぶしぶといった様子は隠さず)封をといて、中の手紙を読み始めた。やがて直江の眉間のしわが、また若干深くなっていくのを千秋は見た。
「帰ってこいってだろ?」
「ああ」
「おまえさ、なんだかんだ主上のお気に入りだからな。お前がいつまでたっても出仕してこないから、俺がいろいろ聞かれるんだぜ?」
「ああ」
 両親や女たちから帰京を促されても、無視できたが、さすがに主上は無視できない。
 非常に不本意だが、帰らないわけにはいかなくなった。
「このまま、寺の門をくぐりたくなってきた」
「それは、やめてくれ。」
かなり本気で千秋は言った。
 直江に僧籍に入られてしまった日には、女どころかあちこちが大騒ぎだ。まあ、でも直江が出家して女人を絶てば、世の中にとってはよいことかもしれないとは、結構本気で考えていたりする。


 直江は久方ぶりの束帯姿に身を包み、帝のおわす清涼殿に向かった。直江の久しぶりの参内に、宮中がざわめいているのを、本人はとんと無関心の様子で歩みを進めた。
「おお、橘の中将。よく帰ってきてくれた。待ち焦がれていたぞ」
 帝は直江の姿を認めるなり、そう言葉を掛けてきた。
 直江は平伏し、言葉を返す。
「もったいないお言葉。主上には、ご心配をお掛けし、誠に申し訳ありませんでした」
 そばに控えている右大臣の父の目に、うっすら涙が浮かんで見えるのは気のせいではないだろう。
「よいよい。そなたが戻ってきてくれただけ、十分じゃ。しかし、一体いかがいたしたのじゃ? 病でもわずろうたという話はきかなんだが。ああ、でも面やつれをしておるな。本当に病ではないのか」
「はい。決してそのようなものでは。長らく離れておりましたが、また明日よりお仕え致します」
 直江の言葉に満足そうに頷く帝と父に、もう一度深々と礼をとって、御前から退出した。
 清涼殿を出て、歩いていると方々から声を掛けられ、そうでなくても無数の視線が自分に注がれているのがわかった。そういったものに今は正直応えている気力が、あまりない。
 ため息でもつきたい気持ちでいると、くいっと御簾の中から自分の袖を引くものがあった。
 一瞬頭を横切ったのは、誰か女に朝から恨み言でも聞かされるのかということで、うんざりした気持ちになった。
 それでも、その袖を振り払うわけにもいかないので、立ち止まってみると、
「な・お・え」
と顔見知りの女官がそこにいた。
「綾子か」
 別の意味で、面倒くさいのに捕まったと思い、それが直江の顔面に如実に現れる。しかし、綾子のほうは、そんな直江の様子にはお構いなしに話しかけてきた。
「大変ねー。主上の覚えもめでたく、いろいろな方々に人気のある人は」
「何か用か」
「愛想がないんだから、もう。聞いたわよ」
「何を」
あまり良い予感はしない。
「あんた、恋煩いしてんだって? めっずらしいこともあるもんね」
そういってからから笑う綾子に、直江は呆気にとられた。
「誰がそんなことを言ってた」
「長秀に決まってんじゃないのよう。ねえねえ、どうなの? 都きっての遊び人のあんたの恋煩いの相手って」
「いつの間に、そういう話になってるんだ」
長秀、余計なことを、と直江の眉間にはくっきり皺が寄る。
「え? 違うの? あんたやつれてるし、直江が恋煩いなんてって最初思ったけど、これは本当だわって思ったんだけどね」
と綾子がいう。
 改めてそういわれると、直江も一瞬返す言葉が見つからない。
 いま自分が痩せて、消沈している理由は、間違いなく高耶が突然消えてしまって、いまだ行方がつかめないことにある。毎日考えるのは彼のことだし、会いたくて、会いたくてたまらない。そのことばかりが気がかりで、どこの女のもとにも最近は一切通っていない。
 ……。
 彼の笑顔が脳裏を占める。彼を思い浮かべると胸が痛い。
 ……。
 会いたい。いますぐ。心から。
 ……。
 …………――――。
 答えが出た。
 ――――どうやら、これは恋らしい。
 そう答えが出ると、何だか今の自分の状態がひどく納得できた。
 そうか。自分は彼に恋をしているのだ。
 いままで、同性とそういう仲になったことがなかったし、そういう方には興味がなかったので、今の今まで気づかなかったが……。
 そうか。恋か。 
 そうか。
「もしもし? 直江?」
一人で何やら考え込んでしまった直江に、綾子は声を掛ける。
 直江はがばっと顔を上げて、綾子をひたと見つめた。
「な、何?」
「綾子、助かった。たまにはおまえも役に立つんだな」
「はあ?」
「じゃあな」
「え、何。ちょ、ちょっとー。何なのよー」
 後ろで文句をいう綾子を振り返ることもなく、直江は執務をする部屋に向かった。
 この気持ちが恋だとわかったからといって、それで高耶が見つかるはずもなかったが、自分の気持ちの整理がついた分、身持ちがわずかに軽くなったような気がした。
 そうやって少し、浮かれた気分で歩いたせいか、角を曲がったところで、どんと人に接触してしまった。
 幸い、互いによろけただけだったが、直江はすぐさま謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません。考え事をしていたもので。お怪我はありませんでしたか?」
 相手は直江より下位の武官のようだった。そして、その見覚えのある体つきに思わずはっとした。
 何か言葉にするより先に、その青年が顔を挙げ、互いに目がしっかりと合った。
 直江は仰天した。
「高耶さん!?」
「直江!」
そう。直江のぶつかった青年はまぎれもなく、高耶その人だった。高耶の方もかなり驚いている様子だった。
「な、なぜ?」
 直江が辛うじてそれだけ言葉にすると、高耶はひとつゆっくり息をすって、それから微笑を浮かべた。
「久しぶり。直江。やっと会えた」


 直江が、その日の執務を早々に切り上げて高耶に話を聞いたところ、高耶は心底すまなそうにしながら、ぽつぽつと話をし始めた。
「オレはさ、地方の一応貴族のうちに生まれて育ったんだけど、最近親を亡くしてさ。妹もいるし、後ろ盾を探していたら上杉の左大臣様が、オレと妹を預かってくれるってことになったんだ。左大臣様って直江も知ってると思うけど、実子がいらっしゃらないだろう? だからオレ達を養子に迎えるって言ってくださったんだ」
 直江の脳裏に左大臣の顔が浮かぶ。歴代の権力者にありがちなギラギラしたところがなく、静かで、しかし確かな貫禄を持って坐している姿が印象的な人物だ。
「最初は、とんでもないと思って断ってたんだけど、熱心に誘ってくださって、その話をお受けしたんだ。で、急にこちらの生活に入るのは大変だろうって、左大臣様が人づてに頼んで、しばらく宇治で都の勉強とかしながら過ごしていたんだ。養子入りも都の生活がどうしても大変そうだったら、後ろ盾にはなるから、しなくていいとまで言ってくださって。だからオレが気兼ねしなくていいように左大臣家の別荘とかじゃなくてどなたかの邸をお借りしてくださったらしい。そこで、直江に会ったんだ」
 高耶は少し微笑んでから、またちょっと申し訳なさそうに眉をひそめる。
「で、もう少ししてから上杉の屋敷に行くはずだったんだけど、養父上から予定より早く呼び寄せられてさ。都に着いたらすぐにおまえに一言伝えたかったんだけど、何かすごく忙しくて。それに直江の本名がわからなくて、直江のこと知ってそうな人に聞いたりするので手間取っちまって」
そういって高耶は本当にすまなかったと頭を下げた。
「あなたのせいではありませんよ。それに、こうしてまたあなたに会えたのだから」
 直江は気持ちが浮き立つのを止められなかった。ここ半月ほどの気の沈みが一気に浮上したようだった。
 直江の笑顔に、高耶もほっとしたように微笑んだ。
「オレも良かった。また直江に会えて。直江って橘義明っていうんだな。この間やっとわかった。すごく似合ってる」
「そうですか?」
「ああ。あ、オレの新しい名前は上杉景虎っていうんだ。なんか大層な名前だろ?オレにはちょっと不釣合いでさ」
「そんなことありませんよ。それに景虎とはあなたのお父上である左大臣殿の以前の呼称であったはず。それを下さるんですから、あなたをとても大事に思っていらっしゃるんですね」
直江がそういうと、高耶は嬉しそうに笑った。
 右大臣である父と左大臣は、好敵手という様子だが、左大臣の人徳は広く世に知れ渡ってるくらいで、そんな人物のもとに高耶が引き取られたということに、直江は嬉しく思った。
 ただ、左大臣程の人が、地方の一貴族の息子を養子に向かえるものなのかと、その辺りが少し疑問に残ったけれど……。
「新しい名前でお呼びしたほうがいいでしょうか」
 直江がそう訪ねると、
「いや、今までと同じでいい。何か、高耶のほうが自分にしっくりくるんだ。それにおまえが『高耶さん』って呼んでくれる声が、オレ、好きなんだ」 そう無邪気にいう高耶に、直江はますます心が惹かれるのを感じた。


 空に少しずつ、次の季節へ移る兆しが見え始めた日の昼下がり。
 久しぶりの再会に話の花を咲かせる両者のもとに、どこからか、都では既に散ったはずの桜の花びらが一枚舞い込んで来ていた。


 さあ、この二人の恋の行方、かの木のいずれの花がその行方を占いますやら。


〔花の行方・完〕




(2004.10初出・コピー本/2009.02修正)